蔵出し
● 時間の個人化 −−ジャン・ボードリヤール 消費者が主体に躍り出ることによって、せり上がってきたのは、時間の個人化という事態である。ジャン・ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』(今村仁司・塚原史 訳、紀伊国屋書店)で、このように述べている。…
● 「我慢できる限界は3分」 閑話休題。ぼくが言いたいのは、マチヤからスーパーへの移りゆきを象徴的な例として、消費社会の噴流にまきこまれることになった人々の意識や感性がどう変わったか、そして何を喪ったかということである。あるいは社会の急激な変…
● 「あと戻り」できない こんなことを書いたからといって、べつにノスタルジックになっているのではない。現在を呼吸しているぼくたちは、何ものとも知れぬものにせき立てられ、ゆとりを失い、いわば強迫神経症的な生を生きるほかなくなっている。けれども「…
(何でこんな原稿を書いたのか記憶はあやふやだが、ハードディスクにいつまでも残しておくのは不憫なので蔵出しします。たぶん2008年に書いたもの。何回かに分けてアップします。現在の実態にあわせて修正したところがあります。) ● レジ前の殺意 会社…
加藤典洋『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』(クレイン) 2.サルマン・ラシュディの言葉 もう一人の、サルマン・ラシュディの文章はつぎのようなものだ。ふただび孫引きである。 国連のアナン事務総長は、かつて何に賛成するかではなく、何…
加藤典洋『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』(クレイン) 会社のぼくのパソコンを買い換えることになった。 故障や迷惑メールなどで、使用中のパソコンにいいかげん疲れていたし、ぶん殴りたいという発作に襲われたことも一再ならずあったの…
(このブログを立ち上げる前に、ボーダーインクのホームページ内にあった「電柱通り物語」というコーナーに載せた文章です。文中に出ている日付からすると、2003年12月末のものと思われます。相変わらず可愛げのない文章を書いていたことがわかります…
ところで、舞台となっている町に存在しないのか、このまんがに学校がえがかれることはない。一太も二太も、そのほかの子どもたちも学齢期だとおもうが、学校に行っている様子はない。そのせいかどうか、登場する子どもたちの年齢も、時代背景もさだかでない…
このマンガは、一太、二太兄弟とその姉かのこの3人を軸に展開する。語り手はほとんどが一太か二太で、かのこがなることはない。なぜかのこが語り手になることがないかというと、受容する人間、受けとめる人間として描かれているからである。この作品を優れ…
『ぼくんち』1.2.3(西原理恵子、小学館)を読む (会社の女性スタッフ、キナキナに面白いですよとすすめられて、『ぼくんち』1.2.3(西原理恵子、小学館)を読んだ。そして深い感銘を受けた。3年ほど前のことである。まんがを論じるには、それな…