否定知識人たち(番外編) 消費される沖縄?


(このブログを立ち上げる前に、ボーダーインクのホームページ内にあった「電柱通り物語」というコーナーに載せた文章です。文中に出ている日付からすると、2003年12月末のものと思われます。相変わらず可愛げのない文章を書いていたことがわかります。蔵出しするにあたって3、4箇所手を入れたところがありますが、ほとんど初出のままです)


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 03年12月19日の琉球新報の文化面に「『消費される沖縄』に危ぐ」という見出しの記事が載っていた。そこに次のようなくだりがある。
「百年前の人類館事件で人々は沖縄県民を好奇のまなざしで見た。今は『美しい自然、癒しの島』といった一面だけをみて消費し、米軍基地の集中などに目をむけない。人類館がなげかけた問題は現代にも通じる」
 地元紙を購読していると、いやでもこのような古くさい唄を聞かされてしまい、やりきれなくなることたびたびである。なぜやりきれなくなるかというと、人々の消費行為にたいして倫理の視線を注いでいるからだ。
「米軍基地の集中」という「一面」だけを見て、沖縄社会がその急流のただ中にある現在から乖離しているのが、この記者氏をふくめた沖縄の知識人・文化人たちに共通した思考法である。ここでいう現在とは沖縄社会が全身どっぷりとつかっている消費資本主義という現在である。
 なぜ「美しい自然、癒しの島」を消費することが咎められなければならないのか。なぜ「米軍基地の集中」に目を向けなければならないのか。マス・イメージを消費している人々は「米軍基地の集中など」眼中にないと即断することは、思い上がった錯誤ではないか。現在がふりまくさまざまなイメージを消費したり享受したりあるいは拒否したりしながら、同時に(同時にということが肝要だ)、米軍基地への不安をつのらせたり腹わたを煮えくりかえしたり、受容したりするのが、人間の存在の仕方ではないか。たったこれだけの引用文からも、疑問が山ほどもわき出すのである。
 一般論としていえば、固定的な価値軸を設けて、時間的なまた空間的な差異を一足飛びにまたぎ越すと、倫理の姿をとる。「正しい日本語」が固定的に存在しているかのように錯覚して「ことばが乱れている」というようなものがそれである。もう一つある。次元のことなることがらを無媒介的につなげて批判する場合も倫理の姿をとってあらわれる。この記者氏の論理のようにだ。
 沖縄に「米軍基地の集中」していることを事実として認めてよい。しかしそのことと人々の消費行為は、直結させるこのできない別のことがらである。基地の問題は政治の問題であり、消費行為は社会的な存在様式の問題であって、この二つを無媒介的に短絡させることによって、抑圧的で高見から見くだした倫理がくりだされるのである。
 「美しい自然、癒しの島」といったコピーは、いずれ広告代理店あたりがでっちあげたものだろうけど、目くじらたてるほどのものではない。息抜きでもよいし、つかの間の開放感を味わうためでもよいが、この島にやってきた人々やこの島で生きている人々が、日常とは別の時間を体験すること(消費)は、言祝ぐべきことではないか。


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 似たような記事を前にも読んだ記憶があり、スクラップブックを探したところ、2002年6月10日の沖縄タイムスに「喜劇の裏に潜むもの」という署名記事が見つかった。論旨を尽くしているので、リード文を引用する。
「大ヒットした県産映画『ナビィの恋』を手掛けた中江裕司監督が、新作『ホテル・ハイビスカス』のロケ地に名護市辺野古を選んだ。物語は、基地の街にある家族経営のホテルが舞台。辺野古は米軍基地キャンプ・シュワブに隣接する街で、普天間飛行場代替基地建設の是非をめぐって激しい対立を繰り広げてきたところ。名護市はロケに全面協力を約束、エキストラとして辺野古区民も予定している。だが、『ナビィの恋』風の屈託のない明るい物語となれば、名護(沖縄)の実態からかけ離れたイメージが全国に広まる可能性もあると、危ぐする声も根強い」
 考えすぎだよ、といえばそれで済む話かも知れない。それにしても、半世紀前にお蔵入りになったはずの「主題の積極性」論の再来という印象をぬぐえない。
 「屈託のない明るい物語」であれば、なぜ「名護(沖縄)の実態からかけ離れた」ことになるのか。代替基地問題でクローズアップされている地域を映画のロケ地とするのがなぜ悪いのか。明るいイメージが全国に広まったとして、それが何か不都合があるのか。なによりも「名護(沖縄)の実態」とは何か。こういう前提的に検討されるべきことが不問のまま、先験的な論理がここに展開されているというべきである。先験的なのは一個の映画(一般的に文化)を政治の文脈でしか読もうとしないからである
 この記者氏が「名護(沖縄)の実態」をどのようなものと考えていようと、また映画の内容がどのようなものであろうと(つまり、明るい映画であろうと暗い映画であろうと、あるいはエンターテインメントであろうと芸術的なものであろうと)、この二つは結びつけることがどだい無理な、次元の異なったものである。
 二人の記者氏の文章は、政治の問題と社会・文化の問題の差異と同一性を混同した、死んだ理念を抱えていることを自ら暴露する言説でしかない。なによりもおぞましいのは、架空の価値軸を設けて、自由で多様な創作意欲や生活意欲の足をひっぱり、水をぶっかけていることである。
 正直いってぼくは、こういった余裕を欠いた危機感の募らせかたが気味悪い。
 ぼくも中江裕司監督の映画を何本か観たが、安直に既成の沖縄イメージに足を取られていて、観ていて恥ずかしくなったことが何度かある。けれども、ほかの表現者たちと同様に、あつらえものの文脈をせいいっぱいくい破り、沖縄のリアルを映像化しようとしている苦闘のあとだけは随所に見てとれた。別のいいかたをすれば、ローカルであると同時に消費資本主義という現在を呼吸している多層的な身体を表現しようとしている苦闘だけは、映画の出来不出来とは別に、掛け値のないものとして受け取ることができた。
 このような苦闘は表現者(に限らず)なら当然のことである。高度消費社会の到来とメディアの発達は、沖縄社会も例外ではないのであって、人々の感性、無意識、ライフスタイルの変容という事態はますます加速している。映像、音楽、文学、建築、商品開発、その他のどの分野でもよいが、表現者たちはみずから主戦場とする場所で、時代と切り結び、現在のリアルに肉薄しようとしているのである。
 何が言いたいかというと、作品の生死や良し悪しを分かつのは、作品の内在的な論理によるのであって、間違っても政治的な波及性や影響といった外在的な論理ではないということだ。


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 この記者氏たちにかぎらず、一般に沖縄の知識人・文化人は政治を一義化しているのだが(政治を一義化しているのを指して沖縄の知識人・文化人といいたいくらいだ)、社会が高度化し複雑化すればすればするほど、幾重にも積み重なった層を媒介しくぐり抜けることなしには現在に一指だにふれることはできない。そうでなければ既存の枠組みにしがみつき、思考停止におちいるだけである。そして百年一日のごとくたこつぼ的な唄を反復するほかないのである。
 こんなことを言われると大いに不服だろうが、皮肉なことに、政治を一義化している知識人・文化人たちは、「欲しがりません勝つまでは」というスローガンや「非常時」という発想のもとに、生活的・文化的な欲求や享受を抑圧した戦前型思考に陥っていることに無自覚である。戦前型思考とこれら知識人・文化人たちの思考法は、一見イデオロギー的な記号はそっぽを向き合っているように見えても、政治を一義化しているという点では同一である。
 これらの人士は、一度は周りを見回して、人々によって乗り越えられていることに愕然とする方がよい、と思う。