おっぱいという磁場(2)


 このマンガは、一太、二太兄弟とその姉かのこの3人を軸に展開する。語り手はほとんどが一太か二太で、かのこがなることはない。なぜかのこが語り手になることがないかというと、受容する人間、受けとめる人間として描かれているからである。この作品を優れたものにしている秘密のひとつはこのあたりにあるとおもう。


 母親はどうやらワケありらしく、後に「ぼくんち」は借金か何かのカタに他人の手に渡ってしまうのだが、母親が家を出ていったあと、かのこが兄弟のめんどうをみることになる。かのこと母親との間に取り決めがあるわけでもなければ、かのこの義務感からでもない。ごく自然のことのようにあるいは天の配剤のように、、かのこは「ぼくんち」に居着き、兄弟と共に暮らしはじめる。


 かのこはピンサロで働いていて、あっけらかんとしたキャラとして描かれている。兄弟の前で平気でスカートをまくりあげてパンツをみせるし、二太に人差し指をなめさせて「これだとタダ」「ちんこだと5000円」と、底の抜けた笑顔で応えるようなキャラである。天衣無縫といってよいのだが、その生のありようは、微かな不幸のにおいをただよわせている。小さなもの、脆いもの、はかないものだけを引き寄せるような、帳尻のあわない資質のようなのである。


 たとえば、とろちゃんという頭の弱い男の子の話が1巻26話にある。三日も会わないと、世話になった人の顔も忘れるような人物だが、とろちゃんは一太や二太兄弟と出会う前から、かのこにかわいがられていたらしい。ある日そのとろちゃんがいなくなり、かのこが泣きながら必死に探しまわる場面があるのだが、この話の最後のコマに、二太の、「でもねえちゃんはもしかして、何でもかんでも飼うのが 趣味の人なのかもしれない」という地の文のモノローグがある。二太は子犬と猫を抱いていて、その二匹の動物ともかのこが拾ってきたのにちがいないと思わせる描き方である。そもそも、かのこが一緒に暮らすことになった一太や二太にしても、うち捨てられたような存在である。いつの時代も、優しさという資質は、荷物を背負ったり貧乏くじを引くようにできているようだ。


 受容する人間としてのかのこの存在を象徴するのは巨きなおっぱいである。まんがの中でかのこのおっぱいが初めて本領(?)を発揮するのは第5話である。(全部で114話ある)。一太と二太が近所の服屋の札換えのバイトを手縫いでしていると、かのこが「ミシン買ってやろうか」という。二太が「そんなお金あんのー」と問うと、かのこは「かんたん かんたん/まんこいっぱつ」と答える。「まんこいっぱつ」の意味をうすうす知っている一太が、押し黙ったままむずかしい顔をして針を動かしていると、かのこが強引に抱き寄せて、いやがる一太の顔をおっぱいにおしあてる。それを見ていた二太が「ねえちゃん ぼくも ぼく……」とねだって、一太に思いっきりぶんなぐられるコマがこのあとに続くのだが。