消費資本主義社会はつらいよ(番外編) 09:56

● 時間の個人化 −−ジャン・ボードリヤール


 消費者が主体に躍り出ることによって、せり上がってきたのは、時間の個人化という事態である。ジャン・ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』(今村仁司塚原史 訳、紀伊国屋書店)で、このように述べている。


「未開社会には時間が存在しないので、人びとが時間をもっているかどうかを問うことは意味がない。そこでは、時間は、反復される集団活動(労働や祭りの祭礼)のリズム以外の何ものでもない。時間をこれらの活動から切り離して未来に投影し、予測と操作を行うことは不可能である。時間は個人的なものではなく、祭りの行事において頂点に達する交換のリズムそのものなのだ。未開社会では、時間はわざわざ「時間」と呼ばれる必要がないので、交換に関する動詞や人間および自然の周期と一体になっている。時間は「繋がれている」が拘束されておらず、しかも「繋がれていること{Gebundenheit}さえもが、どんな自由とも対立しない。この時間は純粋に象徴的な時間であって、時間だけを切り離して抽象的概念とすることはできない。『時間は象徴的である』ということ自体が無意味だといってもよい。要するに、未開社会には貨幣が存在しないのとまったく同じように、時間も存在しないのである」。
「分割可能で抽象的でクロノメーターで測られるような時間は、したがって交換価値のシステムのなかで均質化し、他のあらゆるモノと同じ資格でこのシステムに組みこまれる。」
 


  ボードリヤールの指摘からうかがえるのは、時間の新たな様相である。ボードリヤールの言葉を、ぼくなりに咀嚼してみる。
 「時間をこれらの活動から切り離して未来に投影し、予測と操作を行うことは不可能である。」とはどういう意味か。ボードリヤールはべつのカ所で、「未開社会の特徴である集団全体としての『将来への気づかいの欠如』と『浪費性』は真の豊かさのしるしなのである。われわれの方には豊かさの記号しかない」と記している。納得できる指摘である。現代人の「将来への気づかい」つまり自分の生のすべてを「未来に投影」するることのわかりやすい例をあげると、生命保険をはじめとする諸種の保険や貯金などがある。あるいは「教育」、「福祉」。これらは「後々のため」あるいは「不測の事態」への備えである。しかし「未開社会」では今現在の「集団活動」のリズムこそが最上のもので、未来のために現在を犠牲にするようなことなかった。
 未開社会の時間は、人間および自然の周期と一体になっていて、ことさら時間とよぶ必要はなかった。対照的に、現代社会の時間は「予測と操作」が可能な交換価値として、個人的なものとなった。
 レジ前の無言劇が象徴するのは、時間が個人化したことの露骨なあらわれということができる。言葉をかえていえば、現在の強迫神経症的とでもいうべき意識や感性ありようは、時間の個人化がもたらしたものである。社会が高度化すればするほど時間の価値は高まり、価値が高まれば高まるほど、時間は個人的なものになる。つまり否応なしに個人が析出されるのである。
 未開社会といわずとも、沖縄でもほんの数十年前(スーパーやコンビニ以前、つまりマチヤが一般的であった時代)までは、「時間は『繋がれている』が拘束されて」はいなかった。「時間は、反復される集団活動(労働や祭りの祭礼)のリズム以外の何ものでもない」というのは、過去の理想化のし過ぎだが、場所や空間と不可分の関係にあったとは言える。マチヤにはあったが、コンビニやスーパーにないのは、場所性や空間性である。マチヤは地域のなかにあり、近隣とは地続きであった(「買い物難民」などというのは考えられなかった)。地域や近隣の消滅が時間が「拘束」と感受される理由である。
 時間が個人化したということは、個人のさまざまな属性(男性・女性・大人・子ども・職業・健康状態・地域等々)が消去され、人々が顔をもたない「消費者」として均質化したこと、言葉かえれば、自然な差異が価値化された差異に転化したことを意味する。しかしそれは人々が求めたものである。生の息苦しさ、恣意的な生、個人化、これらはぼくたちが求めてきたものの帰結なのである。