おっぱいという磁場(1)

ぼくんち』1.2.3(西原理恵子小学館)を読む


(会社の女性スタッフ、キナキナに面白いですよとすすめられて、『ぼくんち』1.2.3(西原理恵子小学館)を読んだ。そして深い感銘を受けた。3年ほど前のことである。まんがを論じるには、それなりの作法があるのだろうが、それがどんなものかぼくにはよく分からない。それで蔵にしまったのだと思う。久しぶりに読み返してまんざら捨てたものじゃないという気がしてきて、アップすることにした。アップするにあたって全体的に整形した。3回に分けて載せます)



 舞台は「山と海しかない しずかな町で──」「はしに行くとどんどん貧乏になる」ような地区である。「ぼくんち」はその一番はしっこにある。「しずかな町」と説明されているが、ひとたび作品世界にはいりこむと、人くささにあふれ、登場人物たちは尋常一様ではない。シャブ中や刑務所を出たり入ったりしている人物、暴力ホテトルを一人で張っている女性などなど、地べたをはいずりまわっているような人物だらけである。寄る辺なく、崖っぷちを歩んでいる人々の吹きだまりと思えばよい。それでいて登場する人物がそれぞれに魅力的なのは、あきらめとも達観ともつかない突き抜けた哲学の持ち主たちだからである。セコい上昇志向などはどこにもみあたらない。


 一太と二太兄弟の住んでいる家(ぼくんち)に、「三年前に買い物に行ったきり帰ってこ」なかった母親が、若い女の人を連れて帰ってくる。母親がその女の人をお前たちのお姉ちゃんだといって引き合わせると、兄弟は、「フツー 三年も家出したら、弟か妹こさえてくるもんやろ」と言い返す。これにたいして母親は、「逆や。おかあちゃんは おねえちゃんの家を 家出してたの」と、意に介するようすがない。お姉ちゃんのところを家出して、お前たちを生んだのだと言うのである。作品はこうしてはじまる。


 時をおかずに母親はまたも家出する。今どきの言葉でいえば、養育放棄ということになろう。というより養育という観念自体がこの母親にはないらしい。さらにいえば、このまんがには、組み合わせのことなるいくつかの親子が登場するのだが、どの家族にもことさらな養育という観念がないのである。それでいて、どの家族にも目に見えない紐帯があり、体温が通いあっている。そしてこの紐帯や体温は、いつ消失してもおかしくないような危うさの上に乗っかっている。


 たとえば、二太の友だちのさおりちゃんのばあいはこうである。父親は酒ばかりくらっていて、さおりちゃんはしょっちゅう殴られている。町内でも「死んだら誰も悪うにゆわんからはよう死ね」「No.1」に輝いているような人物である。そのとうちゃんが「イケナイお薬と酒」が原因で倒れ、かろうじて一命をとりとめるのだが、瀕死の父親のかたわらでさおりちゃんは、
 「おしい、実におしい。」「発見があともうすこし おくれてたら 死んでたやろうに な。」
と呟く。奇矯な言辞を弄するようだが、さおりちゃんの呟きから伝わってくるのは、世間体とか人間性といった夾雑物を超えた、純一な心情である。このすぐあとのコマでも、病床の父親にたいして、さおりちゃんは「死ねー 死ねー」と呪文のように呟くのだが、悪意のようなものはみじんも感じられない。だからといって冗談かというとそうでもなく、「死ねー 死ねー」という呟きの本気さが祈りのようにもみえ、至上性とでも呼びたいような関係意識のありようを印象づけるのである。(つづく)