消費資本主義社会はつらいよ(その3)


● 「我慢できる限界は3分」
 閑話休題。ぼくが言いたいのは、マチヤからスーパーへの移りゆきを象徴的な例として、消費社会の噴流にまきこまれることになった人々の意識や感性がどう変わったか、そして何を喪ったかということである。あるいは社会の急激な変容にかかわらず、なおもしぶとく生き残っているものがあるとすれば、それは何かということである。そのことをたしかめたいのである。
 消費社会を生きているぼくたちの快適さを保証するものはさまざまだが、その一つに速度がある。流れが中断したりにぶったり滞ったりしないことである。スーパーもまたその魅力を高めるために、商品構成やディスプレイやレイアウトなどにさまざまなアイデアをひねり出し、工夫をこらしているが、速度もその一つといえる。
 以前に「特急レジ」という言葉を聞いたおぼえがあり、スクラップブックをあさったところ、「『不公平』解消 レジに工夫」(朝日新聞、2002年8月5日)という新聞記事の切り抜きが出てきた(何でこんな記事を切り抜きしていたのだろう?)。
 この記事によると、「特急レジ」というのは、5品目以下の買い物客のための専用レジのことである。
 神奈川県のあるスーパーで、8台あるレジの内、1台を少品目の買い物の専用レジにしたところ、とても好評だとある。また、別のスーパーでも同じく「特急レジ」を実施したところ、不公平だという苦情があって、やむなく廃止したとも書かれている。スーパーの涙ぐましい努力をほうふつさせる話である。
 この記事にはまた、「レジ処理にかかる時間は客一人につき平均一分程度で、並ぶ客が我慢できる限界は三分」というスーパー店長の談話が載っている。
 「我慢できる限界は三分」というのは、ぼくの実感にてらしても肯ける。レジ前の無言劇をおもえばよい。「時は金なり」という格言がおびている道徳主義的だけれども牧歌的でもある匂いはあとかたもなく払拭され、「時」が剥き出しの商品になっていることを、スーパー店長の談話は告げている。だから恐ろしいほどのリアリティがある。


● コンビニ
 コンビニについても触れておく。先にあげた3つのスーパーと同じ圏内に「ローソン」があるが、ぼくはほとんど利用しない。たまにスーパーが開店していない時間帯に立ち寄ることがあるけれども、年に数回ていどである。店内に入り、お目当ての商品を手にしてレジで勘定をすませて店を出るまでほんの数分、快適といえばまことに快適である。難点は品揃えとスーパーにくらべて値段が高いこと。
 かつて芹沢俊介は、コンビニとスーパーを比較して、「スーパーが家族を対象にしているのに対して、コンビニは独りをテーマにしている」と指摘したことがある。また、スーパーは地域に根をおろそうとするが、コンビニは脱地域、脱社会的であるとも述べている(『平成<家族>問題集』、春秋社)。
 若い人や通りすがりのドライバーたちが、気軽にコンビニを利用している姿を見ると、すんなりと納得できる指摘である。
 日常的にはコンビニをほとんど利用しないと書いた。買い物といってもぼくが買うのは、コーヒーとかガムといった品の1,2個だから、コンビニを利用するほうがよさそうなものだが、なぜかそのような発想が湧かないのである。これは我ながら不思議である。けれども、ドライブをしているときなどは、ほぼまちがいなくコンビニを利用する。
 店に入って目当ての商品を見つけてレジに持って行き、店員はバーコードを読み取り、お金のやりとりをして、ひと言も言葉を交わすことなく店を出る。ぼくでさえこのような人間的な接触のなさや簡便さを快いと感じるくらいだから、若い人ならなおさらだと思う。
「脱地域・脱社会」を快く感じる身体感覚がぼくにもまちがいなくある。
 このような感性の根源にある問題に、時間という観点から接近を試みてみる。


● 時間管理
 伊藤元重著『流通は進化する』(中公新書)によると、「コンビニに来るお客さんは、店に入ってからあれこれモノを選んでレジをすませるまでに」かかる時間は、平均4分37秒である。この本にはさらに次のような記述がある。

 「コンビニエンスストアのマニュアルを見ると、レジに三人以上の列ができたときには、必ず隣のレジを開けるようにとの指示があるそうだ。これはコンビニエンスストアのようなところで商品を買う顧客が、レジの前に三人も待っているような状況は我慢できないということだろう。」
 「コンビニエンスストアに来る人たちにとって、100円安く買えるということと、時間が20分有効に使えるということと、どちらが大事であろうか。おそらく時間が20分有効に使えるほうが重要であろう。先進国である日本の消費者にとって時間の価値が高いということが、コンビニエンスストアの成長の大きな要因であろう」

 言っていることはいちいち納得できる。伊藤の指摘からうかがえることは、徹底的な時間管理の思想である。消費者の行動や欲望がスムーズに流れるように、データの集積と評価にもとづいて時間管理がマニュアル化しているのである。
 快適さや便利さと管理はメダルの表裏なのであって、どちらか一方だけを選ぶという都合のいい選択肢などはない。管理という言葉はネガティブな印象を与えるが、しかしそれは消費者の欲望が呼び寄せたものである。「より快適に」「より便利に」という消費社会の命題に応えるかたちで、時間管理はあるのである。ドライブの途中、スーパーやマチヤがあってもそこを通り過ぎて、コンビニが見つかるまで車を走らせるのも、コンビニの「過透性」が心地よいからである。この過透性を支えるのは時間のスムーズな流れにあることはいうまでもない。
 ここまでくると、よりクリアカットに、現在が消費社会と呼ばれる理由がわかる。「我慢できる限界は三分」ということも、「レジの前に三人も待っているような状況は我慢できない」ということも、消費者の欲望が「主体」と化しているということを告げている。