おっぱいという磁場(3)


 ところで、舞台となっている町に存在しないのか、このまんがに学校がえがかれることはない。一太も二太も、そのほかの子どもたちも学齢期だとおもうが、学校に行っている様子はない。そのせいかどうか、登場する子どもたちの年齢も、時代背景もさだかでない。現代ではあろうが、現在のようなシステム社会でないことはたしかである。登場する子どもたちは、はじめから世間という大海に放りだされ、サヴァイヴを余儀なくされている。子どもたちのサバイバルという観点でいえば、時代が中世であるといわれても、ぼくにまったく違和感はない。


 学校もないしむろん行政も福祉もない。女房に逃げられ4,5人の子どもを抱え、川原の掘っ立て小屋で暮らしている男がいるかとおもえば、他人のトラクターを勝手に売り払って小屋を建てた男も登場する。このようなアナーキーで剥き出しの生が、奇妙な存在感をかもし出し、むしろここにこそ本当のリアリティがあるように思われてくる。一皮むけば現代だってこれと似たようなものだってことか。


 うがった見方かもしれないが、作者は現在のようなシステム社会が嫌いなんだとおもう。そう思わせる理由は、かのこの無意識の豊かさあるいは豊かな無意識が関わっている。かのこの受け止めは無条件で、盲愛といってよいほどである(愛とは本質的に盲愛である)。逸脱や脱法行為をしても、弟たちに説教を垂れるのでも規範を説くのでもなく、ひたすらその身を案ずるだけである。硬い言い方をすれば、かのこには、現在社会を染めあげている教育のことば、ビジネスのことば、法のことばははじめから存在しない。あるのは不可触の情感の貯水池。システム社会によって喪われたものが喪われているがゆえに、リアリティをもって迫ってくる。


 このまんがを、一太と二太の成長物語として読むこともできるし、家族を求める物語として読むこともできる。三人はそれぞれに辛い経験をかさね、最後は、一太が町を出て、二太が親戚のじいちゃんに貰われていくところで終わる。「ぼくんち」は解体する。切ない終わり方だが、かのこのおっぱいの記憶が身体に刻まれているかぎり、一太と二太の二人は、何があっても乗り切れると思う。つまり宅間守のようにはならないと思う。