消費資本主義社会はつらいよ


(何でこんな原稿を書いたのか記憶はあやふやだが、ハードディスクにいつまでも残しておくのは不憫なので蔵出しします。たぶん2008年に書いたもの。何回かに分けてアップします。現在の実態にあわせて修正したところがあります。)


● レジ前の殺意
 会社から歩いて5分ほどの圏内に、食品スーパーが3つある。「かねひで」、「サンエー」、「りうぼう」の3つだ。
 どこに行くかはその日の気分次第だが、ぼくは週に2回か3回、このいずれかのスーパーにに行く。買うのはだいたい決まっていて、キャンデー、ガム、禁煙パイプのたぐい。ガムと禁煙パイプはただいま禁煙中のため欠かせない(タバコを吸わなくなって7年も経つというのに、情けない)。
 スーパーに行ったら行ったでさまざまな商品が並んでいてけっこう愉しい。ときには季節の到来を店内で発見することもある。けれども、レジ前に並ぶことを思うと、毎度のことながら気分が萎える。急ぎの用事があるわけではないが、この余裕のなさは何なんだと、いつもおもう。
 必要とするものを買い物かごに入れて、さてとレジに向かうのだが、誰もがするようにぼくも、一瞬のうちに混み具合を判断する。近づくにつれて、他の買い物客のかごの中の容量が見えてくるので、それを一瞥して、空いているレジを選ぶ。
 レジで勘定をしている人がもたついていたりすると災難である。たまに見かけるのだが、紙幣を出して、いざ支払う段になってはじめて小銭入れを探ったりする人がいる。そして一円玉や十円玉を、丹念に数えはじめる。レジ係は平静をよそおっているが、並んでいる人は内心おだやかでない。そんなときはそっと別のレジに移動したりする。
 つい最近ぼくは、「お先にどうぞ」と順番をゆずられたことがある。その人の籠は満杯で、ぼくはコーヒーパックとガムだけだったので、気を利かせてくれたのであろう。こんなことは滅多にあることではない。
 この空間では、「沖縄のこころ」や「沖縄人のやさしさ」なんてものは神話でしかない。誰もがおし黙り、なにやら神経だけが切り立っているいるような空気である。時間にするとほんの二、三分だが、この無言劇が象徴する事態はいたるところで生起している。というよりも今ではそれはありふれた環境世界となっている。
 このことが告げているのは、ぼくたちの身体が固有の質やリズムを失い、恒常性を奪われてしまったということである。ことばを換えていえば、人工的な自然(?)が身体化したということだ。


●かつてマチヤというのがあった
 はじめからスーパーを日常の消費環境として育った世代とは違って、「スーパー以前」の空気を呼吸してきた世代は、スーパーの出現によって何かを獲得したが、同時に何かを喪ったことを、身体的に知っている。
 ぼくの家のすぐ近くに小さな食品スーパーがあった(2年ほど前に経営者が変わり、2010年に廃業)。40年ほど前までは、道向かいで住宅兼用のマチヤ(個人商店)をしていたのだが、道路拡張のために立ち退きになって、この場所でスーパーとして再スタートしたのである。マチヤの頃はおばーさんが一人できりもりしていた(マチヤは固定客が20世帯あれば経営的に成り立つという話を聞いたことがある。その頃はツケで買い物をすることができた)。折目節目は別だが、日常の必要品はほとんどこの店で間に合っていた。つまり、人々の欲望のサイズや質は、マチヤの質とサイズに見合っていた。
 商品構成もありふれたものばかりで、日常生活に欠かせないものだけであった。醤油や味噌といった調味料やお米、パン、缶詰、野菜類。内箒もあったから、掃除機はまだ一般化していなかったのであろう。しかも、今のようにめまぐるしく商品が新しく開発されるということもなかったので、同じメーカーの同じラベルの商品が埃をかぶって何ヶ月も陳列されていた。もちろん賞味期限や消費期限の表示などはなかった。
 買い物に行っても、おばーさんが店にいるとはかぎらない。洗濯をしていたり、食事の支度をしているときなどは奥にひっこんでいて、何度呼んでも出てこない。サービスという観念もお客さんという観念もまるでなかった。まさに「ユラリアチネー」(のんびりした商い)であった。客をほったらかしにして、近所の人と話こむということだってあった。
 店先で待ちぼうけをくらわせられたからといって、スーパーのレジ前でのように、殺意のようなものが湧いたかというと、そんなことはない。おばーさんが出てくるまで何をしていたかは、今となってはまるで思い出せないが、当然のことのように受け入れていたことだけはたしかである。おばーさんの動作ののろさを呪ったりいらついたりすることもなかった。現在からすると嘘のような話だが、年配者なら同意してくれるとおもう。(つづく)