「一階部分の思想」ということ(2)

加藤典洋『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』(クレイン)


2.サルマン・ラシュディの言葉


 もう一人の、サルマン・ラシュディの文章はつぎのようなものだ。ふただび孫引きである。
 国連のアナン事務総長は、かつて何に賛成するかではなく、何に反対するかを考えるべき時にきていると述べたが、わたし(サルマン・ラシュディ)の考えは逆である。巨大な飛行機を世界貿易センターペンタゴンに激突させた9・11テロ後は、何に反対するかはほとんど自明である。「原理主義者たち」は「言論の自由に反対し、多党制の政治システムに反対し、成人による普通選挙に反対し、政府のアカウンタビリティに反対し、ユダヤ人、ホモセクシャル、女性の権利に反対し」「社会的多元主義に、世俗主義に、ミニスカートに、ダンス・パーティに、髭を剃る自由に、進化論に、セックスに」反対するが、わたしはこれらすべてに賛成する。「公の場でのキス、ベーコンサンド、意見の対立、最新流行のファッション、文学作品、寛大さ、飲み水、世界の資源の公正な分配、映画、音楽、思想の自由、美、愛」といった、日常生活のうちに生きる、ありふれた自由こそ、なにものにもかえがたい価値なのだ。


 現在の日本社会を生きるぼくなら、これにチャパツ、ケイタイ、ゲーム、電車の中での化粧・・・を付け加えるところだ。さらに一言多いことをいえば、サルマン・ラシュディはここで、直接的には原理主義者の閉じられた思考法を批判しているのだが、この批判は皮肉なことに、ブッシュ大統領や日本の為政者や教育改革国民会議に象徴される道徳主義者たちにそのままあてはまる。ここのところを読みながら、一瞬、誰を批判しているのかと、錯覚をおこしたほどである。


 ただ一つ、引用文の範囲内でぼくが抱いた違和感をいえば、サルマン・ラシュディは、「原理主義者たち」と高度な資本主義社会を生きるぼくたちの価値観を、同一のレベルでとらえていると思われることだ。ぼくもサルマン・ラシュディが肯定している諸価値を肯定する。しかし「原理主義者」たちがこれら諸価値を否定しているとしても、それを批判する根拠がぼくにあるかというと、それは疑わしい。「日常生活」も「ありふれた自由」も、彼我の間ではすさまじい断層があり、いまのところ、この断層を埋める普遍的な言葉があるとは思えない。あるとすれば、この世界を均質なものとみなす「左翼」の言葉とブッシュの言葉だけだが、ここから未来に通じる何かが生まれることは、金輪際ありえないことは明瞭である。(ひとつ引用文でよくわからないところがある。「世界の資源の公正な分配」といっていることだ。なんでここに唐突に「世界の資源の公正な分配」って言葉が出てくるんだろう)



新しいパソコンでアップしました。
セットするのに思いのほか手間取りました。
(ぼくが作業したのではありませんが)
それにしても無線ランのなんとすっきりしていることよ。


しようもない話題をひとつ。
土曜日に家で、中1の孫娘の誕生会をしました。
おばさんたちや祖母から
図書券や衣服などのプレゼントがあったのですが、
94歳の曾祖母からはマンゴーでした。
ディケアで、仲間の一人からもらったのだそうです。