したたかな脱力系

花田英三・矢口哲男「オン ザ ビーチ」(EKE企画)


 本書は、詩の同人誌「EKE」に現在も連載されている往復書簡の、2002〜07年掲載分を1冊にまとめたものである。話題は日常のあれこれであったり、詩の話や酒の話であったりするのだが、すべてが行き当たりばったりで、一貫したテーマというのはない。
 ゆるい(脱力ということ)といえばこれほどゆるい構成はない。けれどもぼくには、このゆるさがたまらない。構成がゆるいだけでない。精神のありようもゆるいのである。というよりも、花田、矢口のご両人はゆるさを志向しているふしさえある。しかし侮ってはいけない。このゆるさが油断のならない観察力と持続的な思念に下支えされていることを。
 さらにいえば、これはご両人の資質というべきか倫理というべきか知らないが、精神のこわばりがこれっぽっちも見えないこと。教育の言葉ははなからお呼びでなく、また上から目線も皆無で、私的かつ身体に根ざした言葉だけが繰り出される。外在的な言葉で武装された表現が、どれほどもろくて根底を欠くものであるかを言外に告げている。
 例をあげると、地元新聞の文芸時評で「全く進歩のない詩人」という言葉を見つけた矢口が「アレッ、これ僕のことじゃないか? って思いました」と書くと、花田は「これは間違いなく君のことですよ。ハハハ、愉快だね。ところで『進歩する詩人』って、いったい誰のことを指しているんだろう?」と返信する。食えない詩人たちだぜ。もう1つ。矢口が、個がニッチもサッチも行かなくなって20世紀は狂気が主人公になった、と論理を展開しはじめるのだが、すぐに「えい、つまらぬ意見になってしまいました」と自省する。花田が「ずらし」を持ち味とすれば、矢口はときとして抽象論へ走るという具合に個性の違いはあるが、共通しているのは言葉に対する感度。硬い言葉、正しい言葉はまるで罪であるかのように忌避される。真面目くさった言葉もうそっぽいものとみなされる。こういうしたたかな脱力系はまことに得難い。
沖縄タイムス」2001年10月1日

消費資本主義社会はつらいよ(その3)


● 「我慢できる限界は3分」
 閑話休題。ぼくが言いたいのは、マチヤからスーパーへの移りゆきを象徴的な例として、消費社会の噴流にまきこまれることになった人々の意識や感性がどう変わったか、そして何を喪ったかということである。あるいは社会の急激な変容にかかわらず、なおもしぶとく生き残っているものがあるとすれば、それは何かということである。そのことをたしかめたいのである。
 消費社会を生きているぼくたちの快適さを保証するものはさまざまだが、その一つに速度がある。流れが中断したりにぶったり滞ったりしないことである。スーパーもまたその魅力を高めるために、商品構成やディスプレイやレイアウトなどにさまざまなアイデアをひねり出し、工夫をこらしているが、速度もその一つといえる。
 以前に「特急レジ」という言葉を聞いたおぼえがあり、スクラップブックをあさったところ、「『不公平』解消 レジに工夫」(朝日新聞、2002年8月5日)という新聞記事の切り抜きが出てきた(何でこんな記事を切り抜きしていたのだろう?)。
 この記事によると、「特急レジ」というのは、5品目以下の買い物客のための専用レジのことである。
 神奈川県のあるスーパーで、8台あるレジの内、1台を少品目の買い物の専用レジにしたところ、とても好評だとある。また、別のスーパーでも同じく「特急レジ」を実施したところ、不公平だという苦情があって、やむなく廃止したとも書かれている。スーパーの涙ぐましい努力をほうふつさせる話である。
 この記事にはまた、「レジ処理にかかる時間は客一人につき平均一分程度で、並ぶ客が我慢できる限界は三分」というスーパー店長の談話が載っている。
 「我慢できる限界は三分」というのは、ぼくの実感にてらしても肯ける。レジ前の無言劇をおもえばよい。「時は金なり」という格言がおびている道徳主義的だけれども牧歌的でもある匂いはあとかたもなく払拭され、「時」が剥き出しの商品になっていることを、スーパー店長の談話は告げている。だから恐ろしいほどのリアリティがある。


● コンビニ
 コンビニについても触れておく。先にあげた3つのスーパーと同じ圏内に「ローソン」があるが、ぼくはほとんど利用しない。たまにスーパーが開店していない時間帯に立ち寄ることがあるけれども、年に数回ていどである。店内に入り、お目当ての商品を手にしてレジで勘定をすませて店を出るまでほんの数分、快適といえばまことに快適である。難点は品揃えとスーパーにくらべて値段が高いこと。
 かつて芹沢俊介は、コンビニとスーパーを比較して、「スーパーが家族を対象にしているのに対して、コンビニは独りをテーマにしている」と指摘したことがある。また、スーパーは地域に根をおろそうとするが、コンビニは脱地域、脱社会的であるとも述べている(『平成<家族>問題集』、春秋社)。
 若い人や通りすがりのドライバーたちが、気軽にコンビニを利用している姿を見ると、すんなりと納得できる指摘である。
 日常的にはコンビニをほとんど利用しないと書いた。買い物といってもぼくが買うのは、コーヒーとかガムといった品の1,2個だから、コンビニを利用するほうがよさそうなものだが、なぜかそのような発想が湧かないのである。これは我ながら不思議である。けれども、ドライブをしているときなどは、ほぼまちがいなくコンビニを利用する。
 店に入って目当ての商品を見つけてレジに持って行き、店員はバーコードを読み取り、お金のやりとりをして、ひと言も言葉を交わすことなく店を出る。ぼくでさえこのような人間的な接触のなさや簡便さを快いと感じるくらいだから、若い人ならなおさらだと思う。
「脱地域・脱社会」を快く感じる身体感覚がぼくにもまちがいなくある。
 このような感性の根源にある問題に、時間という観点から接近を試みてみる。


● 時間管理
 伊藤元重著『流通は進化する』(中公新書)によると、「コンビニに来るお客さんは、店に入ってからあれこれモノを選んでレジをすませるまでに」かかる時間は、平均4分37秒である。この本にはさらに次のような記述がある。

 「コンビニエンスストアのマニュアルを見ると、レジに三人以上の列ができたときには、必ず隣のレジを開けるようにとの指示があるそうだ。これはコンビニエンスストアのようなところで商品を買う顧客が、レジの前に三人も待っているような状況は我慢できないということだろう。」
 「コンビニエンスストアに来る人たちにとって、100円安く買えるということと、時間が20分有効に使えるということと、どちらが大事であろうか。おそらく時間が20分有効に使えるほうが重要であろう。先進国である日本の消費者にとって時間の価値が高いということが、コンビニエンスストアの成長の大きな要因であろう」

 言っていることはいちいち納得できる。伊藤の指摘からうかがえることは、徹底的な時間管理の思想である。消費者の行動や欲望がスムーズに流れるように、データの集積と評価にもとづいて時間管理がマニュアル化しているのである。
 快適さや便利さと管理はメダルの表裏なのであって、どちらか一方だけを選ぶという都合のいい選択肢などはない。管理という言葉はネガティブな印象を与えるが、しかしそれは消費者の欲望が呼び寄せたものである。「より快適に」「より便利に」という消費社会の命題に応えるかたちで、時間管理はあるのである。ドライブの途中、スーパーやマチヤがあってもそこを通り過ぎて、コンビニが見つかるまで車を走らせるのも、コンビニの「過透性」が心地よいからである。この過透性を支えるのは時間のスムーズな流れにあることはいうまでもない。
 ここまでくると、よりクリアカットに、現在が消費社会と呼ばれる理由がわかる。「我慢できる限界は三分」ということも、「レジの前に三人も待っているような状況は我慢できない」ということも、消費者の欲望が「主体」と化しているということを告げている。

 消費資本主義社会はつらいよ(その2)



● 「あと戻り」できない
 こんなことを書いたからといって、べつにノスタルジックになっているのではない。現在を呼吸しているぼくたちは、何ものとも知れぬものにせき立てられ、ゆとりを失い、いわば強迫神経症的な生を生きるほかなくなっている。けれども「あと戻り」できないことも事実である。マチヤの時代に回帰することもマチヤの時代を復活させることも不可能である。
 効率化、合理化、大型化は、経済原則としては仕方のないものであり、人為の力ではいかんともしがたい。消費資本主義社会のシステムに組み込まれたぼくたちは、身体性や関係性が減衰することを知りながら、否応なくこの軌道を走らざるをえない。
 那覇市場や農連市場にいくといまでも相対売りをしていて、スーパーでは味わうことのできない身体感覚を得ることができるが、もはやそれは局所的なあるいは部分的なケースというほかない。
  このことは善悪の問題とは関係ないことである。「ゆとりある心が失われた」とか「むかしの人間関係はおだやかだった」といって、道徳主義的・復古主義的に世の風潮を慨嘆する人をよく見かけるが、時代の必然性・不可逆性を無視した議論というほかない。
 ぼくは見果てぬ夢やノスタルジーにひたることは嫌いではないが、それが個人の好みであることをやめて、普遍的なもの・積極的な正しさのように主張する人を見ると「死んでくれ」としか思わない。道徳主義と同じく、エコロチズムに荷担する気になれないのはそのせいである。
  焦燥とせわしなさに身を噛まれ、掴みどころのない生活実感しか持てなくても、消費資本主義の現在を必然の相で認知するのでないかぎり、つまり時代の必然を必然の相で認知するのでないかぎり、とんでもない短絡や喜劇を演じることになる。マチヤを反消費の象徴として理念の言葉で語り、那覇新都心を消費の魔都であるかのように呪詛のことばを投げつけている知識人がいるが、倫理反動というべきである(たとえば「すばる」2007年2月号の特集「オキナワの『心熱』」などを見よ)。


● 必然性の認知と違和の同居
 しかしまた、言っておかなければならないことは、時代の趨勢を必然的なものとして認知することと、その必然的な動勢に違和をいだくこととは、一個の人間の内部で同居しうるということだ。
 産業経済の進展にともなう近代化、都市化の激流は否も応もなくアジアの端っこのこの島嶼をも巻き込み、ローカルな生活感情や諸価値に深刻な打撃をあたえた。その結果、ぼくたちは、具象性や自然規定性を欠いた均質で抽象的な時空間を生きることを余儀なくされている。
 あれら一部知識人がいうように、たしかに、マチヤはローカルな価値表象の一つであるといえなくもない。そういう意味で、ぼくも、マチヤの衰退・消滅を哀惜する点で人後におちないつもりだ。
 しかし同時に指摘しておかなければならないことは、マチヤは、近代化、都市化した成熟社会の中で「見出された」価値表象だということだ。現在の寄る辺なさ、生きがたさ、閉塞感が招きよせた価値表象なのである。したがって、マチヤに理念的な意味づけをして那覇新都心にネガティブな眼差しをむけている知識人は、何度でもいうが倫理反動でしかない。
 忘れてほしくないのは、マチヤが雨後の筍のように沖縄各地に出現したのはたかだか戦後のことある。そして、ぼくたちの生活環境・消費環境から退場するようになったのは、ここ数十年を出ない。
 1975年の沖映通りへのダイナハの出店を嚆矢として、スーパーが、続いてコンビニが進出し、沖縄全域に燎原の火のように拡大した。スーパーやコンビニの出現は、好むと好まざるにかかわらず近代化、都市化に適合しないマチヤのような流通形態を駆逐し、その結果、ぼくたちの消費環境は一変した。それにともなって人々の感性や価値観はいちじるしく変容した。
 以後、沖縄の人々はマブイ(強いていえばベンヤミンの「アウラ」だって「マブイ」のようなものだ)を落としたまま生きることを余儀なくされている。くりかえすが、ここで肝要なことは、マブイ(たとえばマチヤ)の消滅を哀惜することと、マブイの消滅を必然化する時代の力を受け容れることとは、無矛盾的に同居しうるということだ。

 消費資本主義社会はつらいよ


(何でこんな原稿を書いたのか記憶はあやふやだが、ハードディスクにいつまでも残しておくのは不憫なので蔵出しします。たぶん2008年に書いたもの。何回かに分けてアップします。現在の実態にあわせて修正したところがあります。)


● レジ前の殺意
 会社から歩いて5分ほどの圏内に、食品スーパーが3つある。「かねひで」、「サンエー」、「りうぼう」の3つだ。
 どこに行くかはその日の気分次第だが、ぼくは週に2回か3回、このいずれかのスーパーにに行く。買うのはだいたい決まっていて、キャンデー、ガム、禁煙パイプのたぐい。ガムと禁煙パイプはただいま禁煙中のため欠かせない(タバコを吸わなくなって7年も経つというのに、情けない)。
 スーパーに行ったら行ったでさまざまな商品が並んでいてけっこう愉しい。ときには季節の到来を店内で発見することもある。けれども、レジ前に並ぶことを思うと、毎度のことながら気分が萎える。急ぎの用事があるわけではないが、この余裕のなさは何なんだと、いつもおもう。
 必要とするものを買い物かごに入れて、さてとレジに向かうのだが、誰もがするようにぼくも、一瞬のうちに混み具合を判断する。近づくにつれて、他の買い物客のかごの中の容量が見えてくるので、それを一瞥して、空いているレジを選ぶ。
 レジで勘定をしている人がもたついていたりすると災難である。たまに見かけるのだが、紙幣を出して、いざ支払う段になってはじめて小銭入れを探ったりする人がいる。そして一円玉や十円玉を、丹念に数えはじめる。レジ係は平静をよそおっているが、並んでいる人は内心おだやかでない。そんなときはそっと別のレジに移動したりする。
 つい最近ぼくは、「お先にどうぞ」と順番をゆずられたことがある。その人の籠は満杯で、ぼくはコーヒーパックとガムだけだったので、気を利かせてくれたのであろう。こんなことは滅多にあることではない。
 この空間では、「沖縄のこころ」や「沖縄人のやさしさ」なんてものは神話でしかない。誰もがおし黙り、なにやら神経だけが切り立っているいるような空気である。時間にするとほんの二、三分だが、この無言劇が象徴する事態はいたるところで生起している。というよりも今ではそれはありふれた環境世界となっている。
 このことが告げているのは、ぼくたちの身体が固有の質やリズムを失い、恒常性を奪われてしまったということである。ことばを換えていえば、人工的な自然(?)が身体化したということだ。


●かつてマチヤというのがあった
 はじめからスーパーを日常の消費環境として育った世代とは違って、「スーパー以前」の空気を呼吸してきた世代は、スーパーの出現によって何かを獲得したが、同時に何かを喪ったことを、身体的に知っている。
 ぼくの家のすぐ近くに小さな食品スーパーがあった(2年ほど前に経営者が変わり、2010年に廃業)。40年ほど前までは、道向かいで住宅兼用のマチヤ(個人商店)をしていたのだが、道路拡張のために立ち退きになって、この場所でスーパーとして再スタートしたのである。マチヤの頃はおばーさんが一人できりもりしていた(マチヤは固定客が20世帯あれば経営的に成り立つという話を聞いたことがある。その頃はツケで買い物をすることができた)。折目節目は別だが、日常の必要品はほとんどこの店で間に合っていた。つまり、人々の欲望のサイズや質は、マチヤの質とサイズに見合っていた。
 商品構成もありふれたものばかりで、日常生活に欠かせないものだけであった。醤油や味噌といった調味料やお米、パン、缶詰、野菜類。内箒もあったから、掃除機はまだ一般化していなかったのであろう。しかも、今のようにめまぐるしく商品が新しく開発されるということもなかったので、同じメーカーの同じラベルの商品が埃をかぶって何ヶ月も陳列されていた。もちろん賞味期限や消費期限の表示などはなかった。
 買い物に行っても、おばーさんが店にいるとはかぎらない。洗濯をしていたり、食事の支度をしているときなどは奥にひっこんでいて、何度呼んでも出てこない。サービスという観念もお客さんという観念もまるでなかった。まさに「ユラリアチネー」(のんびりした商い)であった。客をほったらかしにして、近所の人と話こむということだってあった。
 店先で待ちぼうけをくらわせられたからといって、スーパーのレジ前でのように、殺意のようなものが湧いたかというと、そんなことはない。おばーさんが出てくるまで何をしていたかは、今となってはまるで思い出せないが、当然のことのように受け入れていたことだけはたしかである。おばーさんの動作ののろさを呪ったりいらついたりすることもなかった。現在からすると嘘のような話だが、年配者なら同意してくれるとおもう。(つづく)

IT製品との終わりなき戦い

 
 2ヶ月ほど前にipad2を買った。嬉しかったことは間違いないが、無条件でそうかというと、そこのところは微妙である。忌々しいという感情がかなりの程度まじっているのである。強いて言えば、うれしさが3分の2、忌々しさが3分の1。IT製品を買うたびに毎度味わう感情である。歳のせいか近年はますますそれがひどくなっている。


 なぜ忌々しさを感じるかというと、手に入れた製品に振り回され、四苦八苦するのが目に見えているからである。つまりイラランミーン カイ イッチャン(袋小路にはまった)状態になるのが分かりきっているからである。それでもなお性懲りもなくIT製品を買ってしまうのは、いかなる業のなせるわざか。いや、業などというと、ことがらを見えなくさせる。ぼくもまた消費社会の煽りに乗せられてられているというのが実体に近いというべきだ。これもまた忌々しさを感じさせる要因だ。


 機械音痴なくせに新しいもの好きなのである。こうみえてもぼくは結構早い時期にワープロを購入している。フロッピーが8インチとか16インチの頃だ。その頃、沈みかけていた「朝日ジャーナル」がワープロ特集を組んでいたのを覚えている。


 現在ぼくはパソコン、ケイタイ、カメラ、ipodipad2などをもっている。しかしどれ一つとして満足に使いこなせない。迷惑がられているのを承知で(これは年の功)、家では娘や孫に、会社ではスタッフにいちいち教わってどうにかこうにか動かしているという体たらくだ。マニュアルを見ればよいではないかという人がいるかも知れないが、ぼくに言わせると、あれは人を混乱させ疲れさせるためにあるようなものである。
          (「WA」56号原稿)