否定知識人たち (その3)


否定知識人たちは、映画や文化一般について面妖な理解の仕方をしていて、ここまでそのことついて言葉を費やしてきた。今回は、沖縄の映画シーンに中江裕司が登場したことの意味をぼくなりに整理してみる。それは同時に、ぼくが出版の世界で欲望してきたことを確認することでもある。
あてずっぽうに言えば、1970年代以降、沖縄は、戦後すぐの頃の「イモとハダシ」の生活から離脱し、80年代に入ると、文化的・社会的な果実を享受(べつの言葉では消費)するまでになった。時代の進展はそれなりに大衆を社会的・経済的に開放し、中江映画のようなエンターテインメントが登場する条件がととのったのである。映画にかぎらず、さまざまな表現分野や生活領域で新しい現実が胎動したのであり、それは時代の必然であった。90年代初頭の中江映画の登場は、沖縄がそれ相応の厚みと規模の消費社会に突入したことの反映である。


92年の『パイナップルツアーズ』(監督:真喜屋力中江裕司・當間早志)。94年の『パイパティローマ』(監督:中江裕司)。そして99年の『ナビィの恋』(監督:中江裕司)。90年代の中江映画をあげたが、それまでの「沖縄映画」とは異なる著しい特徴として、消費社会的な感性を意識的・自覚的に取り込んでいることがすぐにわかるとおもう。
世良利和は先にあげた文章で「沖縄地域の映画をめぐる言説には、今のところ『頭でっかち』な傾向がある。通史的な土台部分が脆弱で扱う対象の裾野が狭く、大衆娯楽の面が無視されているという意味だ」と書いている。さしあたり、世良の文章につけくわえることは何もないが、注目したいのは「大衆娯楽」という言葉だ。中江映画はもちろん「大衆娯楽」映画である。しかしこの大衆性は、従来のそれとは異質の、消費社会的・都市的な感性の出現なしには考えられないことである。


このことは、時間軸を導入することなしには、中江映画や中江映画が象徴するさまざまな文化現象や社会現象の思想的な意味を理解することはできないということを意味する。否定知識人たちは「ウチナー/ヤマトゥ」といった空間的構図で沖縄を特権化しているのだが、そうであるかぎり、生成変化する「外部」としての大衆と出会うことはない。まがりなりにも中江裕司は、未知なるものとしての消費資本主義社会と出遭い、その飛沫をまともに浴びたのである。
否定知識人たちが観念している沖縄の社会像は、「イモとハダシ」の段階にとどまっていると言えば矮小化のしすぎかも知れないが、とても静止的である。


自分のことを少し書く。ぼくは1990年にボーダーインクを立ち上げた。その前の80年代の半ばごろ、「まぶい組」という名の編集集団をでっちあげて、サブカル性の強い本を前にいた会社で出しはじめた。ぼくなりに時代の変容に加担したのである。
ボーダーインクを立ち上げて間もないころ、ぼくは沖縄の著名な「文化人」の一人に、「お前は最近の軽薄短小(この言葉がまだ生きていた頃だ)な風潮に便乗して、若い人をたぶらかし、沖縄の真の問題を隠蔽している」と、面と向かって恫喝されたことがある。もちろんぼくは立派(?)に応戦した。
自慢話をしたくてこんな古証文のようなエピソードを持ち出したのではない。いつの時代も固定的な価値軸に囚われた否定知識人がいるということを言いたいのである。大衆という「外部」が存在しない否定知識人たちは、おのれの理念と社会との誤差がどんどん拡大していることにまるで気づかない。そのくせ(それゆえに)、「沖縄の真の問題」などというご当人の脳髄にしか宿らない「問題」を拵えて、勝手に危機意識をつのらせ、「最近の風潮」を慨嘆したり眉をしかめるたりする。


ぼくはむしろ否定知識人たちの一見して「ラジカル」で「鋭い」言説こそが、現実を隠蔽し、人々をミスリードするものだ思っている。
前に、東京から来た評論家だか大学教授だかが、沖縄の情況を「根こぎのうつ状態」と表現したという新聞記事を読んだことがある。また「ヤマトゥンチュは沖縄を癒やしの島だといっているが、この島にいるのは癒されない人々だ」などと、聞いている方が恥ずかしくなるような言辞をまきちらしている人士がいる。あるいは「基地など存在しないかのように、無批判的に消費生活に浸かっている」と、問責口調の知識人がいる。これに『沖縄映画論』の執筆者・発言者たちを加えれば役者はそろったことになる。
これらの言説の特徴は、人々の生きられた時間と隔絶した、人々の生きられた時間を媒介することのない、人々の生きられた時間との接触面をもたない観念性ということにある。
このような言説に接するとぼくは「ギョーテとはおれのことか」と、思わずあたりを見回してしまう。この連中が言っている沖縄は、ぼくが現に生きて呼吸しているこの沖縄のことか、というわけだ。


「根こぎのうつ状態」とか、「癒されない人々」という言葉で言いたいのは、沖縄は一皮むけば地獄であるということなのであろう。ある観点から見れば、それは真実であると言えなくもない。しかしそれは「ある観点」から言えることであって、「ある観点」という限定をはずしてしまえばただちに虚偽に転化する。
いうもおろかなことだが、大衆(人々)は多層的な身体を生きている。人々は、基地の存在や基地を沖縄におしつけている日本政府にはらわたを煮えくりかえすと同時に、それとは直接的には関わりの日常生活を送っている社会的存在である。中江映画を存分に愉しんでいる人々が同時に、生の寄る辺なさに身を噛まれている存在でもある。
否定知識人たちは片面だけを捉えて、それを全体に及ぼそうとするのであるが、とんでもない話である。


四方田は「沖縄に横たわる政治と社会の矛盾に背を向け」と言い、越川は「天皇制や権力」を隠蔽していると言い、仲里は中江映画を「単なる娯楽の文脈には収まらない、沖縄の政治状況との絡み合いを考えざるを得ません」などと言っているが、読む方は泣きたくなるばかりである。
この人たちは現在(消費資本主義社会)における、「政治と社会の矛盾」や「天皇制や権力」に立ち向かうことの困難(あるいはリアリティーのなさ、あるいは不可能性)ゆえの煉獄(あるいは寂しさ、あるいは恣意性)ということに思いを致したことはないにちがいない。だからいとも安直に「政治と社会の矛盾」や「天皇制や権力」といった自動化した言葉が飛び出してくるのだ。
人々の生きている時間への視点を欠いた、否定知識人たちのラジカリズムほどうっとうしいものはない。