少年(未成年者)の集団飲酒について


2010年9月23日の琉球新報に次のような見出しと小見出しの記事が載っていた。
「集団飲酒が大幅増加」
「1〜8月、県警補導少年418人」
「携帯で知り合い、目的なく」


記事は次のようなものである。
「3人以上で酒を飲む『集団飲酒』で、県警が補導した少年が2010年1月から8月末時点で418人に上り、前年同期(259人)を159人も上回ることが22日分かった。県警少年課によると、プロフと呼ばれる自己紹介サイトを通して知り合う例もあり、携帯の普及で面識がなくともメールで友達になり、目的もなく何となく飲む傾向があるとしている。同日開かれた県議会文教厚生委員会(赤嶺昇委員長)などで示された。
 飲酒の補導は03年の4847人をピークに09年度は1246人と年々減少し、集団飲酒の補導も県警が統計を取り始めた08年は921人、09年は412人と半減した。今年集団飲酒で補導されたのは高校生138人が最多、無職少年111人、中学生96人だった。
 県警の平良英喜少年課長は『地域の目が厳しくなり、通報が増えている面もある』とした上で、プロフやブログの普及で面識がなくてもメールなどで連絡を取り合い、飲酒や深夜徘徊につながるケースが増加していることを説明。これまでのような地域的なつながりを超え『交友関係の幅や活動範囲が広がっている』と述べている。」


 分かりにくい記事である。警察発表がこのようなものなのか、記者のまとめがおかしいのか、たしかめる余裕も手立てもないから、それは問わないことにして、記事を前提にして話を進める。


 分からないことの一つは、「飲酒」と「集団飲酒」の違いと、それにもとづく統計数字の扱いである。
 記事によると、たとえば、09年度の「飲酒」補導は1246人で、「集団飲酒」の補導は412人である。まず、この数字の差、834人というのはどういうことかという疑問が起きる。「集団飲酒」とは「3名以上で酒を飲む」こととあるから、この差834人はどこから出てきたのか。2名で飲酒したのか、独酌(まさか)していたのか、それとも親あるいは大人と飲んでいるところを補導されたのか(まさか)、この記事からはさっぱり分からないのである。


 あげ足をとっているのではない。ぼくは、少年(未成年者)の飲酒は「集団飲酒」以外はありえないと思っているから言うのである。大人はいざしらず、少年の飲酒は「集団飲酒」を一般性(ふつうのこと)とする。したがって警察統計が「飲酒」と「集団飲酒」とに分けている根拠がよく分からないのである。


 二つ目は、「プロフと呼ばれる自己紹介サイト」の位置づけだ。これは、3、4年ほど前から新聞などでさかんに報道されている少年(未成年者)の「集団飲酒」全体の中で、どれほどの比重を占めているのか。
 「プロフと呼ばれる自己紹介サイト」を通して知り合った者同士が、集団飲酒するという事実が皆無とはいえないであろうことをぼくも認める。たとえばカラオケや居酒屋などに行くという例があるかも知れない。だが、ぼくは、「プロフと呼ばれる自己紹介サイト」が「集団飲酒」の呼び水になったりきっかけになったりするのは、あったとしても特異で例外的なことだと思う。特異例を一般的傾向性とするのは詐術か、ためにするもの言いである。


 特異例であっても、それが時代や社会を象徴するということはありうる。たとえば酒鬼薔薇事件や秋葉原事件などがそうである。けれども「プロフと呼ばれる自己紹介サイトを通して知り合う例もあり、携帯の普及で面識がなくともメールで友達になり、目的もなく何となく飲む傾向があるとしている。」という言葉に接すると、ぼくは、即座に「ウソつくな」と言いたくなる。いちおう、「例もある」と巧妙(そしてよくある)な「逃げ」の言葉を紛れ込ませているが、記事全体の流れからすると、「集団飲酒」の全体的な傾向性はあたかもプロフを契機にしているかのようにしか読めない。そのような記事の流れである。


 この記者氏(ということにしておく。新聞社にはそれなりのチェックシステムがあるはずだから)は、もしかすると情報社会に恨みがあるのではないかと、あらぬ疑いを抱かせる記事の書き方である。ここのところだけをいえば、この記者氏は、警察発表をそのものとして理解するのではなく(いくら何でも、警察発表がこのような杜撰なものとは思えないから)、強力な自己バイアスがかかっているとしか思えない。


 ついでだから言えば、「目的もなく何となく飲む傾向」といった警察や新聞ジャーナリズム特有の定型的な言葉には、心底うんざりする。ぼくも酒をよく飲むが、だいたいが「目的もなく何となく飲」んでいる。それのどこが悪い。少年が「接待」や下心があって酒を飲むとでもいうのか。自分を棚にあげるな、バカが。定型的な言葉というのは、耳ざわりはよいが、だいたいが権力性を帯電しているということを自覚せよ。


 問題になっている沖縄の少年の集団飲酒は、きわめてローカルな心性あるいは気風に根ざしているというのがぼくの認識である。そして沖縄の少年の集団飲酒が全国的に突出しているとすれば、このローカリテイを問うほかないと思っている。ぼくはべつに、少年の集団飲酒を肯定したり称揚しているのではない。ただ、頭から「非行」とか「悪」と決めつける社会の眼差しには違和感がある。集団飲酒はかろうじて残された「地域性」の露頭という側面がある。子どもが身体的に「群れ」る風景がこの日本列島から消滅していることをおもえば、思い半ばにすぎるであろう。


 頭を冷やすにはなんといっても柳田國男を読むに如くはない。一つ引用する。
「いずれにしても最初は気軽な戯れの心持ちをもってこれを試みない者はないのであるが、『ウソつき泥棒の始まり』などと一括して、これを悪事と認定するような風潮が起こった結果、彼らはおいおいにウソを隠すようになって来て、新たに不必要な罪の数を増したのである。こういう点にかけては、近代人はかえって自由でない。」
  「ウソと子供」(「不幸なる芸術」、『柳田國男全集9』、ちくま文庫)339頁