フーコーの言葉


 ミシェル・ フーコーは、「古典主義時代はあなたのどの著作の中でも、軸となる時代になっています。この時代の明晰さ、あるいは全てが統一され、露にされていた時代、ルネッサンスの『可視性』への郷愁を、ご自身も感じていらっしゃるのでしょうか」という問いに、このように答えている。


「古き時代のそうした美しさはすべて、郷愁の源というよりもむしろ、その効果です。我々自身がこれをでっち上げたのだということが、私にはよくわかっているのです。しかし、この種の郷愁を感じるのは、どちらかといえばよいことです。自身に子供がいる場合には、自分の子供時代との間に満足のゆく関係を持っているということはよいことなわけですが、それとまったく同様ですね。一定の時代に対してそうした郷愁を感ずるのは、それが現在に対して反省的で積極的な関係を取り結ぶやり方の一つであるとするなら、よいことだということになるでしょう。ただもし郷愁が、現在に対して攻撃的で無理解な態度をとるための理由になるとすれば、これを遠ざけなくてはなりません。」(「真理、権力、自己」『ミシェル・フーコー思考集成 ?』、筑摩書房、311頁)



 「古き時代のそうした美しさはすべて、郷愁の源というよりもむしろ、その効果です」とはどういうことかと言うと、「古き時代の美しさ」は事後的に見出された価値表象であるということだ。「古き時代の美しさ」は定性的に美しいのはない。また、同時代においてその美しさが意識化されることもない。それは現在の生き難さ、耐え難さが呼び寄せた価値表象なのである。「我々自身がこれをでっち上げたのだ」という言葉はそういう意味だ。
  くわえて、一定の時代に対して郷愁を感じるのが「よいこと」なのは、現在の不完全性や欠陥を照らし出す(「現在に対して反省的で積極的な関係を取り結ぶ」)からである。ミシェル・フーコーはそう言っているのである。
  だが、ここで終わるのではなく、ミシェル・フーコーは、さらに続けてはっきりと釘をさしている。「ただもし郷愁が、現在に対して攻撃的で無理解な態度をとるための理由になるとすれば、これを遠ざけなくてはなりません」、と。
  過去をノスタルジックに美化して、「現在に対して攻撃的で無理解な態度」をしめすのを、ぼくたちはさまざまな場面で毎度目にしていることである。消費資本主義社会の必然性を認知することができずにたんに倫理的に批判したり、現在の未知性あるいは重層性に耐えられずに過去の価値軸に依拠して、現在を否定する態度もそのひとつである。
  傑作な例をあげれば、マチヤ(かつて沖縄各地で見られた個人商店)を美化し、それと対比させて、那覇新都心を消費と格差社会の象徴としてあげつらった知識人もいるのである。