「ソテツガナシ」と「ソテツ地獄」

聞き書き・島の生活誌(2) ソテツは恩人 奄美のくらし』(盛口満・安渓貴子)を読む


 今年2月に、『聞き書き・島の生活誌(1) 野山がコンビニ 沖縄島のくらし』(当山昌直・安渓遊地=編)、『聞き書き・島の生活誌(2) ソテツは恩人 奄美のくらし』(盛口満・安渓貴子)というブックレットが2点同時に、ボーダーインクから発行された。シリーズ名から分かるように、2冊とも聞き書きによって成っており、(1)が5編、(2)が8編収められている。2つとも100頁ちょっとの薄い冊子だが、これがメチャ(笑い)おもしろい。個人的に、ぼくが子どものころ体験したことや記憶の底に眠っていたことなどが語られているからということもあるが、なによりも、自然を相手に生き生活してきた人ならではの、深い叡智の言葉が、世間話のようにさらりと述べられていて、読みながら幾度となく目を洗われる思いをした。


 ここでは『ソテツは恩人 奄美のくらし』で語られている、ソテツのことに絞って話を進める。この本には、8つの聞き書きが収められている。そのうち、5つの章は何らかのかたちでソテツに触れられていて、ことに一章はまるまるソテツ澱粉の抽出法やソテツ料理の作り方についての記述で占められている。この本を読むと、沖縄とくらべて奄美(諸島)では格段に、ソテツと人々の暮らしが深く関わりあっていたことが分かる。


 「子どもの頃、米を食べるのは年に何回よ。普段はイモです。今でも自分はイモ食よ。イモの無い人はソテツ。あれで育ったのよ。今の人に言ってもわからんが、ソテツは自分らの恩人だからね」と述懐する大正11年生まれの男性がいるかと思えば、「ソテツで生き延びました」と語る昭和13年生まれの瀬戸内町蘇刈の男性がいる。ソテツは日常食とまではいえなくても、ほぼそれに近かったという印象である。


 奄美の人々は、ソテツの性状や利用法などを細大漏らさず知り尽くしていたに相違ない。この本でも、収穫に適した時期やナリ(実)や幹によって異なる澱粉の抽出法、男ソテツと女ソテツのちがい、ソテツ料理の作り方などが詳細かつ具体的に述べられている。驚いたことに、ソテツを食料としてだけでなく、葉を切り刻んで田の緑肥として利用したとか、外国に輸出されたという記述もある。


 十年ほど前にぼくは、しまうた研究者の仲宗根幸市さんに、「沖縄ではソテツ地獄という言葉があるようにソテツのことを否定的にとらえることが多いが、奄美ではソテツガナシというふうに尊称または愛称で呼ぶんですよ」と教えられたことがある。本書を読んで、仲宗根さんの言葉の思いのほか深い含意に気づかされた。沖縄でも、ソテツが緑肥として利用されたり外国に輸出されたかどうかは知らないが、ソテツについての知識や習俗や利用法にそれほどの違いがあったとは思えない。それなのに「ソテツ地獄」と「ソテツガナシ」というように、およそ正反対の言葉が生まれている。


 『沖縄大百科事典』の「ソテツ地獄」の項目を読むと、「第一次大戦後の戦後恐慌期から世界大恐慌期の慢性的不況下における沖縄経済および県民生活の極度の窮迫状況を意味する用語」とある。あるものごとの抽象化や比喩的な表現は、おうおうにして(というよりも不可避的に)人々の生きられた時間の大切なものを切りすてることによって成り立つ。つまり細部に宿る神々を切りすてることによって成り立つ。ここの例でいえば、切りすてられたのは「ソテツガナシ」と呼ぶ心性である。


 封建社会という言葉が、江戸時代を単色で抑圧的なイメージで覆いつくすことがあるように、ソテツ地獄という言葉も、人々の生きている生活世界から乖離した記号として、ひとり歩きしているように思えてならない。戦前真っ暗史観とか沖縄の状況を指して「根こそぎの鬱状態」と言ってのけた某大学教授の言葉も同断である。
「ソテツ地獄」という言葉は、ソテツにたいして恩知らずの命名だと思う。