「クリティカル(批評的)」にもいろいろありまして


7月15日の沖縄タイムスの「文化ノート」というコーナーに、与儀武秀の署名で「沖縄映画と批評的吟味」という文章が載っていた。
ぼくが先月から3回にわたって連載してきた「否定知識人たち」、および番外編の作文と密接に関係するので、つつかせてもらう。
与儀は、「ある映画研究者」(すなわち世良利和)が、「最近刊行された「沖縄映画」の書籍」(すなわち四方田犬彦・大嶺大嶺沙和編『沖縄映画論』)を批判した文章と、「別の評者」(これは分からない)が、四方田たちの著書を、「党派的」「村落共同体的狭量さ」と批判した事実に触れたあとで、世良の指摘する通史的、実証的な基礎研究の必要性に一定の理解をしめした上で、このような主張をおこなっている。


「しかし、同時に注意が必要だと思うのは、そのような基礎的な実証研究の不足という指摘が、映画に対するクリティカル(批評的)な吟味を、否定的なものとして軽んじる意味に転んじてしまうことの危うさである。
 映画が透明・中立な媒体ではなく、特定の思想や政治的な意味を反映するという表象分析は、これまでもW・ベンヤミンやP・ヴィリリオやJ・F・コモリらによって深められてきた。そのような表象イデオロギー批評の視座からは、逆に映画に対する素朴な実証主義の姿勢こそ厳しい批判にさらされることになるだろう(そもそも何事か対象を論じる上で「偏りが感じられ」ない立場など、想定できるのだろうか?)。映画を単なる「娯楽」「見せ物」として脱政治化することも、政治を回避しているという点で、それ自体が十分な政治的な効果を及ぼす振る舞いなのではないか。
 沖縄をめぐる映像が氾濫し、観光イメージ的に流通=消費される傾向にある中で、映画をはじめとする表象文化の批評的吟味は、重要さを増しこそすれ、おとしめられるものではないと感じる」


あまりにつっこみどころが多すぎて、どこから手をつけたらいいのか分からないほどだが、とりあえず2点にしぼって話をすすめる。
まず、文脈からすると与儀は、「クリティカル(批評的)な吟味」ということと「政治的」ということを、等号でつなげている。というよりも同一視している。まずいことには、与儀はこのことに気づいていない。そのために文章全体がとても独善的なものになっている。
「クリティカル(批評的)な吟味」ということは、人間の知的・精神的な営みの成果(作品)を、その営みに固有の論理に内在して対象化することである。そうすることによって人間的価値の地平を眺望するのである。これに対して、「政治的」ということは、さしあたり対象の固有性は捨象され、共同的な価値が優先される。「こうすべきである」という当為や理念の立場から、対象を切り取るのである。与儀はこの二つを同一視している。


もうひとつ、与儀は、つまらない詐術をおこなっている。それは、ある特定の発言や文章にたいする批判を、一般論にすり替えていることだ。
世良は、『沖縄映画論』という特定の著作を、「偏った」ものとして批判したのである。たぶん「ある評者」の「党派的」、「村落共同体的狭量さ」といった批判もそうだと思う。ぼくも、『沖縄映画論』に執筆者や発言者として名を連ねている知識人を、否定知識人と命名して、批判した。『沖縄映画論』という著書は、とうてい、「映画に対するクリティカル(批評的)な吟味」といえたしろものではなく、党派主義者たちの「祭り」でしかないとしてあげつらった。
しかるに与儀は、「映画が透明・中立な媒体ではなく、特定の思想や政治的な意味を反映する」とか、「(そもそも何事か対象を論じる上で「偏りが感じられ」ない立場など、想定できるのだろうか?)」と、いつでもどこにでも通用するような一般論を持ち出してきて、『沖縄映画論』の党派主義を救い出し、そのことによって自己の立場を露呈したのである。


世良は、沖縄の映画研究の現状について、「基礎的な実証研究の不足」を指摘したが、この指摘の仕方は至極まっとうなものではないかと思う。「基礎的な実証研究」が不足しているのであれば、「政治的」ということに煩わされることなく、とことん実証研究すればよい、とぼくなら思う。
だがどういうわけか与儀は、そのような「基礎的な実証研究の不足という指摘」が、「映画に対するクリティカル(批評的)な吟味」を「軽んじる意味に転んじてしまうことの危うさ」があると、おかしな言辞を弄する。さらには「表象イデオロギー批評の視座からは、逆に映画に対する素朴な実証主義の姿勢こそ厳しい批判にさらされることになる」とまでいう。
映画研究にかぎらず、さまざまな研究や小説や絵画の創作など、人間の知的・精神的な営みは、主体の切実さや固有のモチーフに促されてなされるものであって、「政治的な効果」といった共同的な価値など、入り込む余地はない。わかりやすいので例としてあげるが、与儀の言う「表象イデオロギー批評の視座」には、たとえば谷崎潤一郎の小説はその場所を持ち得ないのである。


ことわるまでもなく、人間の知的・精神的な成果物は、宗教でないかぎり、「クリティカル(批評的)な吟味」を免れることはできない。だが、繰り返すが、それは「政治的」な判断とは無関係である。むしろ「クリティカル(批評的)な吟味」と「政治的」とは真っ向から対立するのである。
たとえば、世良は、自身の著作の出版予告(ボーダーインクから近刊です)をしているが、その著書が世間に流通したときに、世良は、あらためて、「クリティカル(批評的)な吟味」の真の恐ろしさに直面するにちがいない。探索がいい加減であったり、実証とは名ばかりの政治的な作物であったり、対象の固有世界を踏み外したりした場合に、容赦のない批判にさらされずにはいないであろう。だが、それは「政治的」な視座とは無関係である。
党派主義者は「政治的」という超越的な審級があるかのごとく語るが、その実、自己が信奉するイデオロギーを語っているにすぎない。このような立場を指して、歴史的に、「スターリニズム」と呼んできた。