否定知識人たち (その2)


なぜ中江裕司はある種の知識人たちから、こうも悪しざまに言われるのだろうか。90年代以降ぼくは、地元の新聞などで、知識人たちによる中江裕司に対する揶揄や批判やあてこすりを何度読まされた知れない。(以後これら知識人のことを否定知識人と呼ぶ)
中江映画が悪しざまにいわれるのは、中江映画が、消費社会の申し子のようなものだからだとぼくは推測している。もっと言えば中江映画が意識的・自覚的に消費社会の感性を繰りこんでいるからに違いない。それがこれらの否定知識人たちには許し難いのだ。
沖縄の映画は「ポップでライト」でちゃらちゃらしたものであってはならない。沖縄は基地の重圧に苦しみ、歴史的に差別され、世界苦を背負っている。だから沖縄映画(に限らないが)はあくまでも、反権力的で体制批判的で、「矛盾に充ちた暗い現実」を描かなければならない。そう言いたいのだ。
何年か前に、中江映画を名指しして、明るく屈託のない物語であれば沖縄の実態からかけはなれたものとして退けられなければならない、と言わんばかりの主張を読んだことがある。(注:これに関連する文章は特別編として再掲する)
このような否定知識人たちの傾向性は同時に、「知」の共同性を形づくる。それがあの沖縄映画をめぐるシンポジウムのような、異様としかいいようのない「祭り」状態を現出させた。


引用文に即して中江批判のナカミを検討する。
四方田犬彦は、中江映画が「沖縄に横たわる政治と社会の矛盾に背を向け、観光主義に対応する映画作りを続け」「外部にとって都合のいい、規範的なインサイダーを仕立て上げると、彼らを通して非歴史的な『やさしい』メロドラマを監督し」ていると批判している。
かたや越川芳明は、中江が「天皇制や権力」を「隠蔽・脱色」することで、「沖縄の人たちにも受ける」と難じている。
誰の目にも明らかだと思うが、これらのコメントは「言いがかり」でしかない。「言いがかり」であり、「ないものねだり」であり、個別の表現主体の表現意志を頭から無視したもの言いである。べつの言い方をすれば、自分の政治理念を唯一のモノサシにして、それに合致しない作品を全否定(批評ではない)しているのである。
ぼくは小説が好きだから小説を例にとると、町田康綿矢りさ村上春樹の小説に、「天皇制や権力」批判がないからといっていちゃもんをつけるようなものだ。


しかしそれ以上に滑稽なのは、はじめからエンターテインメントを志向している映画監督に向かって、「沖縄に横たわる政治と社会の矛盾に背を向け、観光主義に対応する映画作りを続けている」とか「天皇制や権力」を「隠蔽・脱色」しているという言葉を投げつけていることだ。いったいこの人たちは相手が誰で、自分が何を言っているのか知っているのだろうか。
中江映画が批判されなければならないときがあるとすれば、これら否定知識人たちが望んでいることとは反対に、エンターテインメントを徹底しないときである。観客に慰安と愉楽と笑いをもたらさなくなったときが、中江映画の「死」のときであるのははっきりしている。そしてこのことを誰よりも自覚しているのが中江裕司本人にほかならないと、ぼくは思っている。
芸人が急に真面目くさって天下国家を論じたり、ロック歌手が「反原発」をうたったりするときがあるが、ぼくはとてもグロテスクに感じる。なにを勘違いしているんだ思う。中江裕司よ、お願いだから映画表現の世界で、「天皇制や権力」批判をしたり「沖縄に横たわる政治と社会の矛盾」と言い立てたりしてくれるなよ、とぼくは言いたい。


否定知識人たちには思いもおよばないことだろうが、芸能であれエンターテインメント映画であれ(出版も)、一歩その中に踏み込むと、キビシい死活的な世界が控えている。この「キビシい死活的」は、ビジネスとしてだけではなく思想的にもそうなのである。「キビシい死活的」というのは、時代との対峙(とことん読み込むこと)を意味し、そこにしか生産性はない。
外在的に権力批判とかの言説をもてあそんでいる否定知識人たちが、レトロ趣味の固定的な価値軸にしがみつき、「知」の共同世界でしか通用しない言説をなしているだけの、一周遅れの観念主義者でしかないことは、見える人には見えるのである。
時代も社会も人々の生活意識も未知の領野に突入しているのであって、そのことと交差することのない、そのことに脅かされることのない「反」の思想など、一文の値打ちもありやしないのだ。


いっぽう仲里効は、中江裕司を表現主体としてではなく、なにものかにメディア・コントロールされたナイーブな映画監督とみなしている。あるいは中江映画を、独立した表現者の映画作品としてではなく、「政治、経済と結びついた文化戦略との関係」とか「沖縄の政治状況との絡み合いを考えざるを得ません」と、作品外的な評価の仕方をしている。
一般的に言えば、人間が表現したいかなる作品も時代状況と無関係ということはありえない。大なり小なり、人間が生み出した作品は、「時代の子」である。だから、いかなる作品も、時代の母斑を刻されている。その意味でなら、仲里は間違ったことを言っているわけではない。間違ってはいないが、まったく無意味なことを言っていることも間違いない。


どういうことかというと、どこでも誰にでも妥当することを、個別の作品や個別の表現者に直接的にあてはめると、とんでもない虚偽に転化するということだ。ことさら中江映画を「政治、経済と結びついた文化戦略との関係」で考えるためには、個別の根拠がしめされなければならない。「風が吹けば桶屋が儲かる」というだけでは何も言ったことにはならないのである。どこでも誰にでも妥当することを、個別の作品にあてはめるには、幾重もの媒介項をくぐらなければならないのである。
だがくさすためにだけ中江映画をとりあげる仲里は、そのような媒介項をくぐることなく、「当時の小渕総理大臣も観たということがわざわざ記事になったりするのをみると、単なる娯楽の文脈には収まらない、沖縄の政治状況との絡み合いを考えざるを得ません」と、事実の直接性に結びつけ、じつにイヤらしい理屈づけをおこなうのである。


ぼくは高嶺剛の映画を3、4本は見ているし、中江裕司の映画も3本は見ている。いずれの映画も堪能したしまた不満を感じた。しかしそれは作品を作品として鑑賞しての評価であって、イデオロギーや見てくれの芸術性とは無関係である。
中江映画に不満もあるが、しかし特筆大書したいことは、「沖縄のリアル」を鷲づかみにして、それを映像化したいという中江裕司の欲望は掛け値のないものであるということだ。これを評価せずに何を評価せよというのだ。不満というのは、中江が「沖縄のリアル」を「沖縄の内側の沖縄」に求めて、「沖縄を超えた沖縄」にあるということにそれほど意識的・自覚的とは思えないことだ。つまり沖縄というフレーム自体を疑う必要があるとぼくは思う。
高嶺映画について言えば、生理の自然を粘着的にたどり、そのことが脳内現象のような映像表現となって、観客であるぼくを落ち着かなくさせる。つまり夢(夢幻)のような違和の表現になっている。商売としてではなく、趣味としての映画作品として見ればけっこうな出来映えと言えるかも知れない。だが、あれら否定知識人たちのように、手放しで礼賛する気持ちにはとうていなれないのも事実である。                      (続く)


翌日の追記
8行上。>「つまり沖縄というフレーム自体を疑う必要があるとぼくは思う」←自分のことを棚にあげた物言いになっている。反省。