否定知識人たち (その1)


(この文章、すこし長くなったので3回に分けて掲載します。その後に、4、5年前に書いた内容的に関連のある文章を、特別編としてアップします。)


6月18日の琉球新報「落ち穂」欄に、沖縄映画研究の現状を痛烈に批判した世良利和の「沖縄劇映画大全」という文章が載っていた。その文章の中で次の一節が目にとまった。
「ここ数年、沖縄に関する映画の特集上映やシンポジウム、研究書の出版などが盛んになってきた。見る機会の少なかった作品が上映され、議論が活発になることは大いに歓迎したいのだが、手放しで喜べない面もある。取り上げられる作品の種類や時代、論者の視点などに、ひどく偏りが感じられるからだ。(/)たとえば特定の監督だけを絶対視してベタ誉めしながら、別の監督については盗人か犯罪者のようにこきおろすというのは、あまりに偏狭で一方的だ」
明示はしていないが、世良が念頭に置いているのは『沖縄映画論』(四方田犬彦、大嶺沙和編、作品社、2008年)であることは明瞭だ。
2週間ほど前、会社で、「どこだかで中江裕司がポコポコにされたって話だけど」と話題を振ったら、即座にキナキナが「これのことでしょう」といって、この本を取り出して見せてくれた。
2007年に明治学院大学文学部芸術学科がおこなった沖縄映画をめぐるシンポジウムの記録で、その中の共同討議「沖縄から世界を見る」(東琢磨仲里効・大嶺沙和・越川芳明・新城郁夫・高嶺剛四方田犬彦)がそれではないかと言うのだ。
一読してクラクラする既視感におそわれたのを覚えている。


世良の文章は地道な研究者らしく目配りのきいた冷静なもので、それだけに、この本の共著者たちの「ひどく偏」った視点への怒り(と軽蔑)が伝わってくる、そのような文章である。
世良利和の『沖縄映画論』への怒り(と軽蔑)は、バランス感覚と正義感のようなものに発するものと考えられるが、ぼくのこの本にたいする視点はいささか異なる。
こんなことを書くと、またも世間を狭めることになりなりそうだが、ぼくは、これらの論者たちの「ひどく偏」った思考法に、「外部」を欠いた、百年一日のごとき硬直した左翼思想しか読み取れなかった。この論者たちは、一個の映画作品を作品そのものとして享受し、分析し、批判するという意志をはなからかなぐり捨てた党派主義者でしかない、というのがぼくの認識である。
それが既視感をもよおさせた理由だ。


どこを取っても同じだが、本書から、論者たちの思考法の特徴をあらわしている文章や発言を引用しよう。
四方田犬彦
「大嶺の『裏返すこと、表返すこと 一九九九年以降の沖縄の表象』は、中江裕司と比較することで、高嶺の作家としての姿勢を浮き彫りにしている。中江は先行者である高嶺に影響を受けながらも、沖縄に横たわる政治と社会の矛盾に背を向け、観光主義に対応する映画作りを続けている。彼は外部にとって都合のいい、規範的なインサイダーを仕立て上げると、彼らを通して非歴史的な『やさしい』メロドラマを監督し、結果的に沖縄と日本との間の境界を強化する側にまわる。」(19頁、四方田犬彦「沖縄映画をいかに語るか」)
仲里効
「中江映画は、八〇年代から九〇年代にかけての、政治、経済と結びついた文化戦略との関係、とくに沖縄イメージや沖縄ブームがどのように生産され、消費されていくのかを考えていく上で格好のテキストを提供しているように思います。当時の小渕総理大臣も観たということがわざわざ記事になったりするのをみると、単なる娯楽の文脈には収まらない、沖縄の政治状況との絡み合いを考えざるを得ません」(247頁、「沖縄から世界を見る」)
・越川芳明
「中江の場合、風俗を描くのは得意だと思います。ただし、天皇制や権力──権力といっても基地のように外から押しつけられる権力もありますし、沖縄の内部にあるトートーメーや先祖位牌という家父長制の権力もあります──を隠蔽・脱色していくことで、沖縄の人たちにも受けるような中江に対して、高嶺さんのように、天皇制そのものを直接は扱わないまでも、権力と対峙していくことで観客を挑発する姿勢がある監督の場合は、やはり一般大衆はすごく嫌な感じがすると思う」(255頁、「沖縄から世界を見る」)


このへんでよいだろう。他の論者の発言も似たり寄ったりである。
ここで「高嶺」と呼ばれているのは、映画監督・高嶺剛のことだ。世良利和の言う「絶対視してベタ誉め」された監督である。「盗人か犯罪者のようにこきおろ」されたのは「ホテル・ハイビスカス」や「ナビィの恋」の映画監督・中江裕司のことだ。
引用した評言は、批評対象について語っているように見えるが、むしろそれ以上に、評者たちの立っている場所を照らし出している。批評的な言説が不可避的にそうであるようにだ。
中江映画の意味を政治的な文脈に還元すること、ほとんどそのことのみに力を傾注しているのが、引用文から分かっていただけるとおもう。おそらく、これらの論者たちは、中江映画にかぎらず他の作品や事柄についても、政治的文脈という解読格子からしかものを見ていないに違いない。そうとしか解釈しようのない文章であり発言である。
若い人にはにわかには信じがたいことだろうが、昔、階級的な視点の有無を作品評価の基準とする芸術理論がのさばった時代がある。柳田国男の「常民」という概念は階級的視点がないからだめだという議論すらあったのである。カルチュラル・スタディーズだかポスト植民地主義だか知らないが、上に引用した文章などはその再来といえる。
(続く)