所得格差について


 4月17日の「琉球新報」に、県統計課がまとめた2006年の勤労統計調査結果が載っていた。見出しは「労働時間長く、給与少ない」「県内06年平均1780時間21万円」「全国と格差拡大」「98時間多く、6万円低く」となっていて、「全国平均を100とした場合、沖縄県の賃金水準は、現金給与額で72・0、毎月決まって支給される給与で77・6である」と記事は伝えている。
 以下、話を「所得格差」にしぼって思うところを述べる。


 沖縄の住民がおしなべて所得に不満を感じているということ、これは疑いえない。『2006 沖縄県民意識調査報告書』(編集・発行 琉球新報社、2007年4月)によると、「今、気になる問題はなんですか」という質問項目にたいして、最も多い回答は「収入・所得」である。


 けれども、「収入・所得」の低さに不満を抱いているからといって、「全国との格差」を生活実感として如実なものとしているかというと、それは別の事柄である。いうまでもなく「収入・所得」の低さと「全国との格差」とは直接的にはつながらない。行政やマスコミはいざしらず、個々の住民にとっては「全国との格差」はしょせん他人事といってよい。つまり「東は東、西は西」。



 それに、所得の全国平均が沖縄に比べて高水準にあると数字上はなっているが、全国平均を上回っているのは東京や大阪など大都市圏で占められていることに留意すべきである。よくいわれているように東京と沖縄の所得格差が二倍近くあるということ、この統計的な事実についての沖縄住民の受け止めかたは、「そんなものだろう」というような、いたって平静なものだというのがぼくの観測だ。


 所得格差を悪と頭からきめつけてはいけない。というより、数字的・物理的な表れを単一の度量衡とすることによって、人々の生活実感から乖離し、吟味すべき大事なことが見えなくなることに自覚的であるべきだ。


 これは個人的な見方と断った上で言うのだが、たとえば東京の賃金水準が沖縄の二倍近くあるとして、それは、何ものかをもって贖ったものである、というのがぼくの認識だ。象徴的に言えば、東京の駅の地下通路を通行する人々のスピードをイメージすればよい。ビジネスにまれ、生活様式にまれ、人間関係にまれ、ぜい肉をそぎ落とした効率化した身体を要求されているのが「東京」である。「東京」の高い賃金はその反対給付という側面がある。


 今度の参院補選で、カリマタ陣営は本土との格差をつついていたが、「革新」の相も変わらぬ、ピントのずれた時代認識・社会認識には溜め息が出るばかりであった。これじゃあ・・・。