隙間が存在する

「本は売れなければ紙くず同然」という言葉がある。
間然するところのない言葉である。
身も蓋もないこのような割り切った価値観は強力無比といえる。
なぜ強力無比かというと、資本主義の原理と隙間なく一致しているからだ。


時代を問わずに言えることだが、その時代の価値観と一体化した価値観は揺るぎない。
武士道が称揚された時代の武士道、軍国主義の時代の軍国主義は、だんぜん「えらい」のである。
だから、ある時代の支配的な精神なり価値観なりに異を称えることは、どこかしら負け犬の遠吠え的な、偽善的な、自己弁護じみた響きをおびてしまう。
つまり「嘘っぽさ」をまぬがれることはできない。


ライブドアのかつての社長・堀江貴文語録に、「稼ぐが勝ち」「人の心は金で買える」「金を持っているやつが偉い」というのがある。
昔からある言葉として「この世は金と女」というのもある。
「本は売れなければ紙くず同然」という価値観と同じく、このような価値観を、好き嫌いの問題としてではなく、根底から本質的に批判することは不可能ではないかと思えるほどだ。
「えげつない」「厚顔」「没義道」といった言葉を投げつけることは簡単だけれども、無力である。それに批判になっていない。
投げつけられた当人も、柳に風であろう。


だからといって、堀江語録にみられるような価値観を全面的に承服するかというと、そうはゆかない。釈然としないものが残るのである。
なぜ釈然としないものが残るのか。吉本隆明の言葉を借りていえば、「人間だから」というほかないように思う。
悪魔の試みに対するイエスの言葉、「人はパンのみにて生きるにあらず」も同じ事態を指している。
動物と違って人間には「隙間」がある。
「倫理」が芽吹くのは、この「隙間」としての「釈然としなさ」を契機としてではないだろうか。


一見して、「本は売れなければ紙くず同然」という言葉の対極に、「志の出版」「良心的出版」というのがある。
最近はあまり聞かれなくなったが、数十年前までは、それなりに通用していた出版理念である。
だがぼくはある時期から、この言葉に居心地の悪さをおぼえるようになった。
理由は二つある。
ひとつは、「志」や「良心」を専有しているといわんばかりの思い上がりが見え隠れすること。
この連中は、「正しい」ことを言うことに、嘘っぽいという意識や気後れのようなものが兆さないのだろうかというのが、ぼくのひそかな疑念であった。
ふたつは、資本主義を必然の相で捉えているようにはどうしても思えないこと。言葉を換えていえば、資本主義的の「外」から理念を調達しているように見えたこと。
理念であれ思想であれ、社会を必然の相で受け止めるのでないかぎり、恣意的であることを免れない。
ファシズムスターリニズムの根っこにあるのは、この恣意性である。


「本は売れなければ紙くず同然」という価値観に抗うことはできそうにない。
けれども厄介なことには、人間に隙間が存在するかぎり、「本は売れなければ紙くず同然」という揚言に対して、「お説ごもっとも」と全面的にかしずくことはできない。
矛盾したことを言うようだが、「志の出版」「良心的出版」といった出版理念は、いかがわしくはあっても、存在根拠はあるのである。


根拠はあるけれども、「志の出版」の裏面に「本は売れなければ紙くず同然」という価値観が張りついていないかぎり、その理念は無効である。
おなじく「本は売れなければ紙くず同然」も、その裏面に「釈然としなさ」を抱えているのでないかぎり、カッコいいけれども、それだけのものである。
何にせよ片面的な理念に未来性はないことだけははっきりしている。


かくして、自己と現実のあいだ、自己と自己のあいだに隙間風が吹いている思想は、いつまでも、片づかない顔をさらしているよりないのである。