未成年者の万引通報を「ためらう」ことの輝き

(5月5日改稿)


5月1日の沖縄タイムスにこのような記事が載っていた。
「『万引必ず通報』6割」、「那覇署店舗アンケート」、「調書・未成年にためらい」。
リード文は次の通り。


那覇署が管内の小売業28店舗に対して実施したアンケートで、『万引犯を捕まえた場合は必ず警察に通報する』と回答した店が6割程度にとどまることがわかった。背景として、店舗側が調書作成などに大きな負担を感じていることや、未成年者の犯行に寛容な考えがあることがうかがえる。」


記事全体のニュアンスから受け取れるのは、万引の通報が6割程度であることにネガティブなまなざしを向けているということである。このまなざしは、記者のまなざしというよりは警察のまなざしと見るべきだろう。6割程度という数字が多いのか少ないのかはぼくには分からない。ぼくがこの記事に注目したのは、店舗側が、未成年者の万引犯に「寛容」であったり、通報することに「ためらい」を感じているらしいことである。正直、うれしくなりましたね。警察の単線的なまなざしとはちがって、店舗側のそれは、地下茎のようにかろうじて命脈をたもっている、ローカルな感情や価値観の発露と見られるからである。ここでは、このことにしぼって話をすすめる


ことあるごとに、「地域のもつ教育力」といった空念仏を唱えている教育機関や警察や地域団体が、うち捨てて顧みないのが、土地の長い歴史に根ざした感情や価値観である。数年前、突如として(ぼくにはそう思えた)未成年者の集団飲酒がクローズアップされ、連日のように新聞を賑わせたことがある(それが今ではどうだ)。当時、各地で未成年者の集団飲酒撲滅のための集会が催され、パトロールが実施された。その時にぼくの目と耳にとどいたのは、教育の語法、司法の語法だけであった。沖縄の未成年者の集団飲酒が全国的に突出しているのはなぜかが問われることなく、頭から悪と決めつけ、集団飲酒狩りがおこなわれたのである。


未成年者の集団飲酒や万引通報にたいする社会の対応は、白か黒か、非行か善行といった価値軸であるのだが、そのような価値軸は社会に分断線を引くだけである。それにたいして、この記事の店舗側の対応に見られるような「寛容」や「ためらい」は、社会的包摂のための心情的な基盤である、とぼくには思える。


さて、このような店舗側の対応にたいして、警察幹部は上の新聞記事でこのように語っている。


「悪いことをしたらバシッと叱ってもらえるかどうかが非行から卒業できるかどうかの分かれ道。見て見ぬふりの大人が多くなってしまった今だからこそ、警察が少年を検挙する重要性は増している」


ここには二つのことが露呈している。ひとつは、あろうことか警察が道徳教育の役割まで担おうしているらしいことである。もうひとつは、どさくさにまぎれて警察組織の権益の拡大という鎧の下をあからさまに表明していることだ(官僚機構によくあることだが)。「見て見ぬふりの大人が多くなってしまった」ことを認めてもよい。それと同時に、「同情」や「ためらい」の心情の存在も心細いものになってしまったことも。警察は「寛容」や「ためらい」は無用の長物で、さっさと通報せよというかもしれないが、ぼくには、「寛容」や「ためらい」が存在するということこそがなぐさめである。警察的な論理よりも店舗側の論理の方が好もしく思える。かつてこの社会は、善悪二元論排除の論理ではなく、「寛容」や「ためらい」のような不定形の感情や倫理が根をはっていたことを忘れないでおこう。