ある碁キチのこと


 近所のわりと親しくしている人が、家の外に椅子をもち出して往来をながめていた。息子さんが隣に立っていたから、彼に身体を支えられて出てきたのであろう。
 その人は無類の碁好きで、何度も対局したことがある。お互い誘い合わせて囲碁の大会に出たこともある。
 ぼくは挨拶をするつもりで道を渡って行って、声をかけた。しかしその人はぼくのことを思い出せない様子である。しげしげとぼくの顔をのぞきこむのだがなかなか思い出せない。しまいには申し訳なさそうに頭さげている。
 息子さんが助け船を出して、「ほら、そこの角の○○さんですよ」と教えるのだが、曖昧な表情を浮かべるだけある。
「ときどきこうなるんです」と息子さんが言った。
「長いんですか」
「半年くらい前から、急にです」
 そんな会話を交わしていると、その人がいきなりぼくのズボンを2、3度ひっぱった。顔を向けると、人指し指と中指を立てて、ピョコピョコと上下させている。碁を打つ仕草である。
 驚いたというか感動したというか。
 名前すら思い出せない相手が、碁を打つということだけは覚えていたのである。
(「WA」46号)