人生の「残り時間」ということ――「宮古島の英語人間」補遺

●額田勲氏の発言


  前立腺がんに見舞われ、放射線治療という過酷な治療を選択した医師で、多くの著書のある額田勲氏が、ある対話の中でこのように発言している。


「第二の人生とは、生と死のせめぎ合いばかりかというとそんなことだけではない。がんということを経験して数年くらいですが、最近毎日放射線治療で三か月ほど苦しみ、その場合、死だけを恐れて生きるかといったらそうではなく、必ずといっていいほど自分の経験から新しい目標や目的が生まれるんですね。もちろん足し算的な第一の人生の価値観とは確実に違う。それはどういうこかというのは一人一人違います」
      (「スピード」4号、2010年。芹沢俊介との対話)


  額田氏が述べていることを、ぼくなりに咀嚼して言葉にしてみる。
  自分(額田氏のこと)は、慢性期のがんを患っているが、常時死の恐怖に「だけ」とらわれているかというとそうではない。死の観念にとらわれることがしばしばあるが、同時に、がん患者といえども、日常をも生きているのであって、そうであれば、「必ずといっていいほど自分の経験から新しい目標や目的が生まれる」。死が避けられないということは知っているが、いつ死ぬということは確定的には分からない。つまり死というゴールは見えない。
  死の恐れがないのではない。しかし死の恐れ「だけ」かというと、そのように言い切るのも嘘になる。不透明で何ものをも相対的せずにはおかない時間というものの中で生きておれば、人は「必ず」「新しい目標や目的」を見いだすものである。そういう多層的な生を生きているのが人間存在である。がん患者も例外ではない。額田氏はそう語っているように見える。
  もう一つ、それではなぜがん患者の人生は、「足し算的な第一の人生の価値観とは確実に違う」か。それは不可避的に死の観念を繰り込んでしまうからである。「第一の人生」においては死ははるか彼方にある、というよりも意識にすらのぼらないのが常態である。だから「第一の人生」における「目標や目的」は「足し算的」である。しかし、がん患者の「目標や目的」は死に縁取られている。つまり死という大枠をはずれることはない。
  額田氏の言葉をぼくなりに敷衍した。(書いていて自分の文章があまりにも軽く走りすぎているのに嫌気がさした。走りすぎるというのは、肝心のことを抜かしているということにつながる。自戒せよ→ぼく)


  さて、額田氏の言葉と、前に書いた宮古島の英語人間の生き方、およびそのときに引用したよしもとばななの言葉は通底するものがある思うので、次にそれについて考えてみたい。(続く)