とんがった精神風景


定期検診で行った病院の待合室で印象深い体験をしたので、そのことについて書く。
その日の待合室はいつになく閑散としていた。インフルエンザのせいだろうか。
病院スタッフは全員、患者さんはチラホラとマスクをしていた。
受付をすませて、ぼくは2列目の一番端っこの椅子に腰をおろした。
ぼくの席から2つ椅子をはさんだ内側に、60代前半とおぼしい男性が、週刊誌を読んでいて、その前の椅子の背もたれに、男性のものと思われる傘の柄がひっかけられてぶら下がっていた。
ぼくはバッグから文庫本を取りだして読みはじめた。
しばらくして、気配を感じて横をふり向くと、70代くらいの男性が押し殺したような声で「アンソーヌ ウチカタ アンナー(こんな置き方があるか)」と言って、背もたれに引っ掛けられている傘を取り上げて床にたたきつけ、そのまま向こうの方へ立ち去って行ったのだった。そして5,6メートルほど先の椅子に座って、腕組みをしてじっと前方をみつめているのだが、なにやらひどく怒気をふくんだ横顔であった。
ぼくは呆気にとられてしまった。
隣りの男性は、傘を拾って股の間ににはさみ、「ヌー ナトーガ(どうなっているんだ)」とつぶやき、「チブル ウカシク ネーニ(頭がおかしいんじゃないか)」と、ぼくの方を向いて同意をもとめるように言った。


一瞬の出来事で、にわかには事態がのみ込めなかったほどである。
隣りの男がいうようには頭がおかしいのではない、と思う。
それにしてもその70代の男は、なぜ他人の傘を床にたたきつけるという奇矯としかいいようのない振る舞いにおよんだのか。
「アンソーヌ ウチカタ アンナー(こんな置き方があるか)」という言葉からぼくが推測したのは、こうである。
その男は、前の列の椅子の背もたれに傘の柄をひっ掛けているのをマナー違反と見なしたのだ。前の椅子に人がいないのをたしかめて傘を引っ掛けたのかもしれないが、マナー違反はマナー違反である。
そのマナー違反を、70代男性は許容しがたかったのだ。
そんなのお前の勝手な思い込みだといわれれば黙って引き下がるだけだが、この推測はそれほど的をはずしていないと思う。
マナー違反を見咎めての行為というふうに解釈して話を進めるが、それでもわざわざ他人の席までやってきて、他人の傘を床にたたきつけるというのは、どうみても尋常な行為とはいえない。
普通なら、それがマナー違反であったとしても、眉をしかめて通り過ぎるか、目くじら立てるほどのことではないとして、見過ごすかすると思う。げんにぼくも、その傘を目にして一瞬「アレッ」とおもったが、それ以上気にかけなかった。
とするとくだんの70代男性の行為は、あくまでも特殊で例外的な出来事と受けとめるべきなのだろうか。こだわりすぎかもしれないが、そのようにあっさりとは片づけることのできないひっかかりをぼくは感じた。70代男性の振るまいに、今という時代の尖った精神風景が露出していると映ったのである。


ぼくがひっかかりを感じた理由を、理屈っぽくまとめれば次のようになる。
ひとつはどんな些事であってもそれがマナー違反であるかぎり見過ごさないとする許容の幅の狭さである。この許容の幅の狭さは、公共性の意識のたかまりと相まって、近年とくにひどくなっているといってよい。
二つ目は、いきなりやってきて傘をたたきつけた行為に見られるように、これまでにない攻撃性である。攻撃性が抜き身の状態にあるイメージだ。
三つ目は、これを行った人物が、分別がきき、おだやかであるべき高齢者であったということ。ニュース報道などで子どもや若い人の殺人や暴力行為がよくとりあげられるが、自己抑制の枠が脆弱になったという点では、高齢者と若い人にさしたるちがいがなくなったのが近年の顕著な現象だ。子どもに固有の時間、若者に固有の時間、老年に固有の時間、そのような差異が消失して、年齢に関係なく誰もが均質化した同一のステージにいるのである。
かつてはたしかにあった年齢に応じたゆったりとした自然なる成熟というのは、夢のまた夢となった。
病院待合室で珍奇な出来事を目撃して、あらためてそんなことを考えたのだった。