市販のシーミー料理


連休の最終日にあたる六日、わが家のシーミー(清明祭)をおこなった。
料理は近くのスーパーに注文して造ってもらった。
こんなことは初めてである。
例年だと、栄町の市場で材料を買ってきて、妻が娘たちに手伝わせて、前夜から準備するのだが、今年は事情がちがった。3日から5日までの2泊3日、家族で遠出したのである。
ゴールデンウィークのスケジュールが決まると、妻が、「今年はシーミー料理をスーパーに注文しないねー」と言ったとき、ぼくは一も二もなく賛成した。
少し無理をすれば料理を造れないことはないが、無理しないことにしたのである(ぼくがではなく妻が)。


2、3年前からぼくは、シーミー料理を市販のセットものに切り替えてはどうかと提案していた。だから事情があるとはいえ、妻の言葉に、正直なところ、ホッとした。しかしまたこうもあっさりと、長年の習慣が切り替わることに、いささかの寂しさをともなったことは否めない。これまでの習慣を継続する意力と体力が衰えたことを自認するようでもあったからだ。
重箱の詰め合わせセットの値段は5000円。そのほかにお花や饅頭、くだものなどを買ったからしめて1万円ちょっと。料理の味は少し濃い感じがした。ただ、値段に不満があるらしく、娘が、シーミーの席で、単品で買い揃えるほうがよかったかもね、と言っていた。


市販品ということでいえば、ぼくの郷里では、トゥシビー祝い(生年祝い)や法事の料理を、車で2、30分ほどの距離にある町のスーパーや総菜屋に注文する家が増えてきた。
ジュールクニチ(一六日)やシーミーなどの行事料理もそうである。
トゥシビー祝いなどでは、家で作るのは吸い物となますくらいのものだ。
10年くらい前からぽつぽつとそういう傾向があったのだが、目立って増えたのはここ4、5年のことである。
ご多分にもれず、ぼくの郷里もサラリーマン世帯や高齢者世帯が大部分で、重箱料理(5品とか7品とか)を作るには手間暇がかかりすぎる。だから、スーパーや総菜屋を利用することになるのは自然のなりゆきというべきかもしれない。
若い家族だと、2000円〜3000円程度のオードブルを買ってきて、それを重箱に詰め直しているケースもあるらしい。


シーミーの季節に、那覇あたりのスーパーで、重箱料理が店頭に飾られ、「シーミー料理承ります」の貼り紙が張られるようになったのは、いつごろからだろうか。たぶんそんなに時間は経っていないと思う。
沖縄のいたるところ、そしてさまざまな分野が、市場化の波に洗われているわけだが、行事料理の分野も例外ではなく、長年の風習が深くしずかにかつ日常的に変容しているにちがいない。このことは容易に想像がつくことだ。
数年前に法事で郷里に帰ったとき、料理を名護市のスーパーから取り寄せていると聞いたとき、はじめは驚いたが、すぐにこういう選択もアリだなとぼくは納得した。むしろ、見事なまでの適応力に感心したほどである。
ぼくは、道徳やイデオロギーではなく生きている人間に加担したいから、このような選択肢のひろがりをもたらした消費社会を言祝ぐのである。
来年からどうなるか分からないが、今年の経験はよい経験であった。