愕然


さくらももこの『漫画版 ひとりずもう』上・下巻を読んだ。
ももこ(ちびまる子)の少女期から思春期までを、「ちびまる子ちゃん」とはがらりと変わったリリカルな作風でえがかれていて、これはこれで心から堪能することができた。
上巻は小学校5年生から高校2年生まで、下巻は高校2年生から短大に合格して漫画家レビューまでがえがかれているわけだが、上巻を読んでいてあることに気づいて愕然とした。おじいさんの友蔵が出てこないのだ。気配すら感じない。おばあさんも出てこない。
ということは、ももこ(ちびまる子)が小学校3年生から5年生にかけてのある時期に、おじいさんとおばあさんは亡くなったということだ。(さくらももこのエッセイでは触れられているのだろうか)


年だから亡くなっていても不思議はないと言われれば返す言葉もないが、いまひとつ落ち着かない。孫たちと一緒に「ちびまる子ちゃん」をくり返して読み、日曜日夕方のテレビアニメの「ちびまる子ちゃん」を欠かさずに見ているぼくにとって、友蔵がいないという事実は、とても「変」な感じである。
見慣れていた風景がかすかに意味を変えているにもかかわらず、何事もなかったかのように、日常が淡々と反復される。人生とはこういうことの連続だとわかっていても、やはり落ち着けなくてあたりを見回してしまう。おかあさんのガミガミは相変わらずだし、おとうさんのおとぼけぶりも健在である。クラスメートたちは、小学3年生のときの面影が残っているものの、年齢相応に気難しくなっている。そんな中で、生理をむかえ、進路に悩み、クラスの仲間たちと一緒にはじけることもできずにいたり、また友人との別れ経験するといったももこの日々の様子が、淡く切ない色調でえがかれる。


生きている者は、生きるということに精一杯だ。とくに若ければ若いほどそうである。
だから、親しかった者や愛し愛された者が亡くなっても、容赦なく忘れ去られ、あるいは記憶の底に沈んでゆく。これはいかんともしがたいことだ。
人間がずっと繰り返してきたことが、ももこもさくら家でも反復されているのである。日常というものの当たり前さと恒常性、これは救いなのかも知れない。


『漫画版 ひとりずもう』のひとりずもう的読みでした。