お金だけの世の中?

 
11月16日の沖縄タイムス夕刊に「どーんと10億円寄付/神奈川88歳女性」という記事が載っていた。
戦後、夫(故人)ともに会社を興し成功した女性が、生まれ育ったふるさとに10億円を寄付したというのが記事の内容である。
寄付行為自体は大いに結構なことだと思う。
けれどもぼくはとてもグロテスクなものを見せつけられた気分であった。
100万円札の1000束、現金で贈呈したというのだ。


新聞には市役所での贈呈式のときの写真も掲載されていて、テーブルには現金がピラミッド状にどかーんと積み上げられている。
これだけの現金だから、ガードマンに守られて銀行員が届けたのだと思う(たぶん)。
小切手とか目録のようなものでなくて、なんで現金なんだ。
鳴り物入りで自分の行為を見せびらかしたいため?


よきことは隠れて行え、という意味のことを2000年前の砂漠の男は語ったが、この女性にとって、こんなセリフは「なに、それ?」であろう。
つまりこの女性の価値観は、金銭は絶対→他人もそう観念しているにちがいない→したがって現金を衆人環視の中で渡して何が悪い、となっているのではないか。
もしそうだとすると、人間存在をなめきった話だとおもう。


金銭にたいする欲望は、強弱はそれぞれであっても、誰にでもある。これは否定しがたい事実だ。
この「否定しがたい事実」を、ぼくは、倫理にとっての最低のラインのことだと理解している。
つまりこの欲望は万人に共通する自然性ということだ。
自然性だから、不可避のものとして認知するしかないないが、だからといって万人に共通する唯一無二の価値かというと、そうはいえそうにない。


だが、この女性は、至高の価値と見なしているのではないか。自分がそうだから他人もそうにちがいない、とたかをくくっているのではないか。そうでなければ10億円もの金を現金で贈呈するというすさまじい振る舞いはできないと思う。
「正直におっしゃい。あなただってお金が欲しいんでしょう。人間誰だってそうよ」
たしかにお金は喉から手が出るほど欲しい。けれども、厄介なことに、ぼくの「正直」なるものの中身はそれだけではありません。


この女性からすれば、ぼくがここに書いているようなことも、貧乏人のやっかみか負け犬の遠吠えでしかないかも知れない。
ま、いいけど。