*[沖縄的言説風景] みそとくそを分離せよ

*[沖縄的言説風景] みそとくそを分離せよ


 新城郁夫という人が「スピヴァク氏講演に寄せて」(沖縄タイムス、07/7/10)という文章で、次のように書いている


「いまこの沖縄という場において、沖縄に生きるすべての人が曝されている困難を、どのような言葉で表現することが可能だろうか。その苦悩は、ほとんど、生き難さ、とさえ言いうるのではないか。
 辺野古沖で完全な非暴力で続けられている一般市民による平和的反基地運動に対して、自衛隊掃海艇が不法に投入され軍事的脅迫が国によって遂行されている。教科書における『集団自決』記述が文科省の介入により削除されていく。そして沖縄の周辺海域においては日米両国のやりたい放題の軍事演習が繰り返され、アジア全域の緊張が煽られている。こうしたなかで、経済的基盤は国の振興策によって徹底して破壊され、結果として貧困は固定され、とくに女性や高齢者あるいは『障害者』やパート労働者は、社会福祉の外部に追い出されていく」



 ぼくもまた、自衛隊掃海艇の投入や文科省の介入による「集団自決」記述の削除に、カチンときた一人だ。日本政府のなりふりかまわぬ権力行使と、イデオロギー装置であることをあからさまに自己暴露した文科省。政府の小汚い振る舞いに、ぼくは、いつまで続くぬかるみぞ、という軍歌の一節を口ずさむだけであった。
 しかし、だからといって新城郁夫がここで展開しているイデオロギー的な論理に加担するかというと、そうはゆかないのである。というよりも、ぼくはこのような論理は解体されなければならないと考えている。
 なぜ解体されなければならないかというと、一見すると論理めかしているけれども、みそとくそをごちゃまぜにした、目くらましの議論でしかない、とおもうからだ。引用文にみられるような言説は、新城の否定感情の”表出”ではありえても、まるで現実批判にはなっていない。季節はずれの唄というべき「反復帰論」や「沖縄ナショナリズム」も同断である。


 この文章で言われている沖縄は、地域的な名称ではなく、米軍基地をかかえているところの政治的な表象としての沖縄を指している。したがって「沖縄に生きるすべての人が曝されている困難」とか、「その苦悩」、「生き難さ」といった言辞は、政治的な表象としての沖縄、すなわち「基地としての沖縄」と文脈的につながり、その関連で記述されていることは明白だ。
 このような議論はとても観念的である。観念的というのは、いくつもあるファクターの一切が捨象され、社会像が記号としてのみ措定されているということだ。実態はシャットアウトされ、あるのは「基地に呻吟する沖縄」という片面的なイメージだけ。
 たしかに人々は「生き難さ」をかかえている。しかしこの「生き難さ」を、無媒介的に基地とつなげるのは、人々の生きられた現実を無視するものだ。このことを証明するのに面倒な手続きを必要としない。自分自身を顧みればよいのだ。自分自身の「生き難さ」に、基地の影がほんとうに射しているか、と。
 新城の言う「生き難さ」は、人々の生きる現実感に立脚しない、人々の生きる現実感から乖離した、たんなる否定性(観念性)でしかない。
 だから沖縄が、およそ人が住めそうもないようなSF的なイメージで描かれることになるのだ。


 新城郁夫は、沖縄の否定的な事象のすべての源泉を基地に求めているが、観念的な論理というのは、このような一方向的な連結の仕方としてあらわれる。いうまでもないことだが、基地に発祥する否定的な現実もあれば、社会一般を源泉とする否定性もあり(肯定性もある)、だめな政府のだめさのあらわれとしての否定的な現実もある(ごくごくまれに良いこともある)。
 ここで大事なことは、差異と同一性を弁別することである。実体的には同一であっても、概念的に区別すべきものは区別するのでなければ、ものごとの本質を見えなくさせ、誤った処方箋をとらせることになる。
 基地に発祥する「悪」は基地を縮小するか撤去する以外解決の道はないし、政治政策的にしか救抜されないものは政治政策的に対処するよりない。すべての「悪」を基地という袋にぶちこめば済むという話ではないのである。


 「沖縄に生きるすべての人が」が一様に「苦悩」や「生き難さ」を抱えているとしても、それを一義的に基地に求めることはできない。「生き難さ」ということを生活意識と読みかえれば、ふつうの人々の生活意識に占める基地の比重は、小さく、また部分的なものだ。
 生活というのは社会的なカテゴリーだが、基地は政治的なカテゴリーである。そして具体的な生活を生きる主体としての個人にくらべると、政治的主体としての個人は部分的である。「国民」としての個人概念より、「市民」としての個人概念が大きいのである。だから、新城の言う「生き難さ」は嘘っぽい。
 何が言いたいかというと、概念としての差異と連関を無視して、基地という否定的な側面のみ恣意的に切り取って突出したかたちで強調することは、論者のルサンチマンを先鋭化するのには役立っても(癒し?)、現実批判としては無効だということだ。
 ぼくは、基地をないがしろにしてもよいとか、基地はテーマたりえないといっているのではない。基地には基地の位相というのがあり、したがって基地という政治的な表象と、人々の社会的なありかたを弁別せよと主張しているのだ。


 新城のこの文章にみられるような、みそとくそをいっしょくたにしたような議論は、沖縄の左翼知識人に共通して見られるものだ。
 前に、沖縄の自殺率の高さを、基地の存在と結びつけて論じた左翼知識人の文章を読んだことがある。また今年になって、那覇新都心を「軍事植民地」や「ポストコロニアリズム」の文脈で論じた文章を立て続けに目にした。いずれも、沖縄の左翼の固疾というべき連結の仕方である。
 自殺が、経済的な不如意であったり、病苦であったり、人間関係の齟齬であったりと、そのきっかけあるいは原因はさまざまでありうるが、基地が自殺者の心的世界をかすりもしないことははっきりしている。けれども左翼知識人にとっては、こういう事実は関係ないらしい。ただもうすべてのネガティブな現実を基地と結びつければよいのだ。
 那覇新都心についても論理構造は同じである。どのような思考経路をたどれば「軍事植民地」や「ポストコロニアリズム」とつながるのか、ぼくにはさっぱり分からない。那覇新都心が提起している問題の核心は、(都市再開発→)基地返還地跡利用という経済社会的なプロジェクトであり、「軍事植民地」という政治的なカテゴリーとは、原理的に別種のことがらである。
 新城が、引用文の最後のところで展開している論理も、これらと同種のものである。新城は、「貧困の固定」化や「女性や高齢者あるいは『障害者』やパート労働者」が「社会福祉の外部に追い出されていく」現実が、軍事的な緊張を背景とする、「国の振興策」との関連で論じているが、読んでいて目を覆いたくなるばかりだ。
 「貧困」、「女性」、「高齢者」、「障害者」、「パート労働者」など、社会的なテーマの一切合切を基地とリンクさせ、一方向的にひっぱるのは、今では誰も振り向かないアジリでしかない。


 新城(たち)の理屈が生きることができるのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論法が通用するかぎりにおいてである。