*[コラム] サムライ?

書店で「週刊朝日」(6月15日号)を立ち読みして、石原東京都知事が、松岡農水大臣の自殺について「侍だ」と発言していることを知った。
週刊朝日」にはほかにも、自殺したりせずに真相を明らかするべきであったなどと、とんまなコメントをしている識者がいた。
やりきれない話である。
いずれも自分を棚にあげた発言である。
もちろん松岡農水大臣は「追いつめられて」自殺したのである。
同情するのもけなすのも勝手だが、死者を神輿にのせるのはやめてほしい。
石原都知事の発言は、松岡農水大臣の自殺を「出処進退のりっぱさ」とか、政権や組織に迷惑をかけるような話を墓場に持っていったというように美化してのものだろうけど、石原都知事が額面遂行することはありえない。
「追いつめられて」自殺するのはみっともないことだと言う人もいるかもしれないが、「組織防衛」や「出処進退」としての自殺より、はるかに人間的である。
戦後の最大の取り柄は、命を粗末にする思想を相対化したことである。
国家や天皇のために命を捧げる価値観やメンタリティーを解体したことである。
だが、口惜しいことには、最近はそれも怪しくなった。

書店のたなには、武士道とか、品格とか、サムライをキーワードとするタイトルの本が並んでいる。
なかには人のために死ねるか、とか、生命を超えた価値があるかなどと、高見からモラルを垂れている輩がいる。
いつも、何様のつもりだ、こいつらは、と思う。
例外なくといってよいが、武士道だとか、品格だとか、サムライなどといった徳目を説いて連中は、他人に、倫理規範を要求する。
美学だか価値観だかは知らないが、それが個人用のマクシムとして語られるのなら、「どうぞご勝手に」といって済ませることができるが、彼らはそれを誰にでも適用されるべきモラルとしている。
彼らにとって人々は、教え導くべき対象であるか、操作の対象である。
この連中はいついかなる場合も、壇上から閲兵している人間に自分を擬している。
あるいは馬上で叱咤している人間に。
自分を、行進している兵士や、地面をはいずりまわっている雑兵の一人としては夢にも思わないのである。(比喩が古いですね)
倫理規範を自分用のマクシムとしている人間は、決して他人にそれを要求したりしない。


武士道や侍という言葉に接するとき、ぼくは中野重治の「豪傑」という詩を思い出す。分かりにくいところがあるが、味わい深い詩である。引用する。


 「豪傑」    中野重治


むかし豪傑といふものがゐた
彼は書物をよみ
嘘をつかず
みなりを気にせず
わざを磨くために飯を食はなかった
後指をさゝれると腹を切った
恥ずかしい心が生じると腹を切った
かいしゃくは友達にして貰った
彼は銭をためる代りに溜めなかった
つらいという代りに敵を殺した
恩を感じると胸のなかにたゝんで置いて
あとでその人のために敵を殺した
いくらでも殺した
それからおのれも死んだ
生きのびたものはみな白髪になった
白髪はまつ白であった
しわが深く眉毛がながく
そして声がまだ遠くまで聞こえた
彼は心を鍛へるために自分の心臓をふいごにした
そして種族の重いひき臼をしずかにまはした
重いひき臼をしずかにまはし
そしてやがて死んだ
そして人は 死んだ豪傑を 天の星から見分けることが出来なかった