*[禁煙] 26ヶ月目──禁煙席で妄念を育てる

*[禁煙] 26ヶ月目──禁煙席で妄念を育てる


友人との待ち合わせ場所である国際通りの喫茶店に入った。
奥の方にガラスで仕切られた喫煙室があるが、ぼくは禁煙席についた。
なんとも嫌みな人間になり果てたものである。
世間の裏道をあるいてきた人間が急にまじめくさった仮面をつけたような、
落ち着かない気分である。
友人はタバコをすわないからよかったものの、
愛煙家ならどうするつもりだったんだ、俺。


コーヒーを注文してあたりを見回す。
喫煙室はひっきりなしというほどではないが、
それなりに客が出入りしている。
タバコを一本すい終わるとすぐに出ていく人。
吸い殻がたまった灰皿を、ウェートレスに取りかえさせている様子の男三人組。
男性だけがタバコをすっているカップル。
気のせいか喫煙室は寒々として見える。


ガラスの仕切りを真ん前にして、
ガラスの仕切りが象徴する理念や空気を思うと、いやな気分におそわれる。
ハンセン病に対する長年にわたる共同観念や施策が、
まちがいであったことがいまでは明らかになったが、
反タバコの風潮も似たようなものだというのが、ぼくの認識であり判断である。


遅れてやってきた友人が、席につくなり
「まだ(禁煙が)続いているか」と言う。
「まぁなー」とぼく。
喫煙室に目をやって「いやな世の中になったな」と友人。
彼も数年前まではタバコをすっていた男である。
「燎原の火のようにって言葉があるが、最近の禁煙の風潮がまさにそれだな」
「むかしは映画館の中でも堂々とタバコをすっていたよなー」
この友人と肌があうのは、タバコをすっていたかつての自分を否定しないこと。
だから現にタバコをすっている人間にたいしても同情という感情の回路がある。


この「感情の回路」が切れたのが、現在の反タバコの風潮である。
いまではタバコをすう人は、徴つき人間のあつかいである。
いつからこの社会はこんなに息苦しいものになったのか。
神経症的で異物排除的で「清く正しく」なければならなくなったのか。
漫画やテレビアニメの喫煙描写にクレームがつく時代や社会は、どう考えても尋常でない。


そうかというと、これとはべつのおかしな人間も目立つようになった。
禁煙を達成した人間の中に、
禁煙をやりとげたという優越意識から、タバコをすっている人間を見下す手合いがいるのだ。
タバコの恩義(?)を忘れた振る舞いである。


ぼくは現在、禁煙26ヶ月目に突入している。
26ヶ月経ったけれども、いまもって日々あがき苦しみのたうっている。
先行き不透明、視界不良、濃霧のただ中だ。
禁煙を達成したという状態になるのはいつか、
あるいはふたたび喫煙をはじめるのかは「神のみぞ知る」である。
だから大口をたたくつもりはないが、一つだけ言いうることは、
いづれであったとしても、
禁煙運動に収束する清潔主義や全体主義を憎むことに変わりないということ。