明るい廃業

今朝、ミーティングをしているときに、中部のB書店から、店を閉めるので在庫品を引き取りに来てくれという電話があった。
電話の主はたぶん店主だろうが、電話をとったKの話だと、声が妙に明るかったという。気のせいか、廃業する書店主の表情は一様に明るいように思う。
去年の暮れに廃業したN書店の場合もそうであった。撤収作業をしているところを陣中見舞いしたのだが、このときのオーナーも、憑き物がおちたように実に晴れ晴れとした表情をしていたのを思い出す。書店を維持経営していたときとはうってかわって、身もこころも解放感にひたっているという印象であった。


数ヶ月前にK書店が廃業したときもぼくは、似たような感想を抱いた。
朝のミーティングのとき、書店担当のNが廃業のニュースをもたらしたのだが、はじめそれを聞いたとき、ぼくの内心のつぶやきは「やはりなー」というものであった。バス停前という立地にもかかわらず、いつ見ても店内は閑散としていた。不謹慎と知りつつ言うのだが、ここまで店が持ったというのが不思議なくらいである。
ところで、このときのK書店オーナーのことで、鮮やかに印象に残っているエピソードがある。それについて書く。


連絡があって書店担当のNが在庫品を引き取りに行ったのだが、そのときK書店のオーナーは、ふっきれた表情でこう述懐したという。
「30年余り、1日も休むことなくがむしゃらに働いてきたが、万策尽きたって感じだ。一段落したら、まずは人間ドックに入って、徹底的に身体をチェックしてもらうつもりだ」
これを聞いてぼくは、粛然としましたね。
ミーティングの場も、一瞬だが、息をのんだような空気が流れたのを覚えている。
廃業を決断して、真っ先になすべきこととして、人間ドックの受診と思い定めたということが、おかしくもあれば痛ましくもあった。


ひがな一日、客の入りの悪い店内を冴えない表情でながめているK書店オーナーの姿をぼくは思い浮かべた。
泥船の中にいるあいだは思念も才覚も泥船から離れられないものである。それがひとたび泥船を廃棄すると決めると、「自由」な選択肢がひろがる。
店を経営しているあいだ、目の前のことにかまけて、脇によけたり先送りしたりしていたことがいっぱいあったにちがいない。それが何であるかは知らないが、次のステップを踏み出す前に、何をおいてもまずは身体のメンテナンスと発想したということに、ぼくは感動した。