「左翼の島」?

 

すこし古い話題だが、佐藤優琉球新報に連載している「ウチナー評論」の3月8日、15日、22日の3回は「左翼と右翼」というテーマであった。この文章の冒頭はこうである。
「沖縄は左翼の島で、特にマスコミが偏向しているという話が、一部の内地メディアで流布している。特に琉球新報沖縄タイムスが諸悪の根源で、左翼的報道によって、沖縄県民に同調圧力をかけているのだそうである。筆者に対しても、『お前は右翼、保守のはずなのに、なんで琉球新報のような左翼紙に連載をもつのか』という批判もときどき耳にする」
これに続けて佐藤は、左翼・右翼といった有効性を失った枠組みで沖縄問題を論じることは有害であると批判して、左翼と右翼についての「原理的な整理」をおこなっている。ぼくが問題としたいのはそこにはないから、さしあたり、佐藤の左翼・右翼の議論は脇においておく。


佐藤のこの文章は、うっかりするとそのまま読み過ごしてしまいそうだが、よくよく考えると、なんだかおかしい、というのがはじめに読んだときのぼくの判断であった。ふむべき手順をふまずに、いきなりトピカルな話題に入り、そのフレームの枠内で論理を展開しているからだ。どういうことかというと、佐藤は、左翼とか右翼という枠組みを自明のものとして議論を展開しているのだが、左翼的とか右翼的という前に、「政治的」という概念が媒介されなければならないとおもう。それが脱落しているのだ。


おおかたが認めることだと思うが、沖縄は全国的に見て、突出して「政治的」な地域(県)である。このことが「沖縄は左翼の島」と見られる要因だが、しかし誤解してならないのは、「左翼的」ということと「政治的」ということは、実体(現象)としては重なるところがあっても、概念としてははっきりと区別しなければならないということだ。まず「政治的」という観念の基盤があり、それを前提としてはじめて、人々の政治意識のあらわれとして左翼的とか右翼的というのがあるのである。左翼的・右翼的という概念は、「政治的」という概念と関連づけて把握されないと、平板な理解になってしまう。


沖縄が「政治的」であることの要因はさまざまあるが、第一にあげられるのはむろん、広大な米軍基地の存在だ。日本政府は、米軍基地を、地域問題か経済問題(振興策とか補助金とか)にすりかえることに躍起になっているが、基地は外政というかくれもない「政治的」事象である。「政治的」とはどういうことか。滝村隆一の言葉をかりれば、統一社会全体(すなわち国家)にかかわる事象であり、それはまた観念的な事象である。米軍基地の存在が、沖縄を不可避的に政治の次元に登場させるのである。


したがって「政治的」という概念を媒介することなく、たんに「左翼の島」というだけでは、政治意識の傾向性というレベルでの理解に終わる。左翼と右翼が、表面的には角突き合っていても、おうおうにして、人々の生きられる時間を無視したり悲憤慷慨したり大衆を慨嘆したりと同一の身振りをするのは、「政治的」を共通基盤としているからである。


沖縄を「左翼の島」とラベリングする前に、「政治の島」としてとらえるのが、まっとうな理解だと、ぼくはおもう。釈迦に説法かも知れないか、一言記しておく。